パーツ化される存在

ニコニコ動画ではなかなかチャレンジングな動画も多いですよね。2chでも昔からそうですが、常識をかえりみない挑戦を行う方は後を絶たない。見ていてそれは、面白いしいいと思う。
まぁ、今日もニコ動を見ていたわけですが。おっぱいにピンクのシールかテープ(?)を貼って踊っている方がいました。
以前も似た感じのを見たな・・・と思いつつ、いいぞもっとやれと書くわけではありませんが、あれってどういう心理でアップしているのかなーと純粋に興味をもったわけです。
もともと携帯サイトでも、自分の裸などを写メで撮って投稿するということは行われていたようです。あれの延長として捉えればいいんですかね。注目されたい、自分を見てほしいという気持ちはちょっとした常識や羞恥はあっさり凌駕してしまうのですね。
このときの心理に関して思い出したのが、「神様のパズル」での穂瑞が服を脱ぎながら放ったセリフ。(結局脱いでいないが)
「..顔は隠す。すると私のパーツは『記号』に過ぎなくなる。ハイキー気味で頼むよ。カラッといこう」
自分を記号として第三者的に捉えるという意識のおきかえが印象に残ったものだ。まさにパーツ。誰でもないただ無数の写真が出回っているWeb。自分自身で、ある意味流出ともとれるアップを行うのは、そういった心理が働いているのかと思った。
自分の手から離れたメッセージは、一つの部品(パーツ)と化し、そのメッセージが持つ性質だけがのこる。パーツの受け取り方は解釈しだいであり、確たる答えがない。送り手不在な以上、その正しい解答のメッセージを知ることは不可能となっている。憶測とデマが飛び交う。パーツは際限なくコピーされ、ネット上の数メガバイト、いやもっと多くのリソースを消費する。
送り手不在となった瞬間、あらゆるメッセージはパーツとなる。そのものの価値だけに意識が集中する。心の琴線に触れるすばらしいパーツは人々にもてはやされ、その存在感を増大させてゆく。そういった意味で言うと、ブログはまだパーツとなりきっていない。
世界中のパーツがWeb上に飛び交う。それは文脈や背景を消去し、ただそのものだけが部分的に見つめられる。
たまに、細切れになった美しいパーツを見て、これがまだパーツでなく完全であったころ、どういったものだったんだろうか・・・・と思いを馳せる。Web上のパーツを拾い集めて、失われたものを追いかけ、完成させたいという衝動に駆られる。さまざまな思いが詰められていたパーツが飛び交っている、インターネット。