全て把握したような、気の利いた言葉

この世界、言った者勝ちである。どんどんアピールし、頭を回転させて気の利いた言葉を放つ。それが人間として能力あるとみなされる。実像が伴ってなくても、派手なパフォーマンスは周囲の目を引く。人間の性を利用したものである。実際の自分より大きく見せていけることが尊敬の対象になっている。うわべの情報を聞いて、答える、全てを把握したような言葉。それはその場の感動を与えてくれるが、決して実体を伴ったものではない。わかったような感覚は、あくまで感覚でしかない。自分の気持ちが満足することと、物事をなすことは少し違う。
大きく見せた自分とのギャップを埋めるために努力するというモチベーションの持ち方は一つのやり方であるが、それを誰かがやりだすと、他がありのままの自分を見せづらくなるという実態がある。虚言の応酬に陥る。いかにすごそうにみせられるか、ハッタリをきかすかということがすごいと思われる価値観が、実体物との乖離を生んでいる。実体経済との乖離などはまさに、その代表例だ。後付でつじつまをあわすという期待と楽観は、ひとつがくずれるとあわく、そしてもろい。
私たちは誰もが時の旅人であり、その時代に放り込まれて、その中で自分を適応させる。その時代が正しいか間違っているか、そんなこんなも全部ひっくるめて清濁併せ呑んで生きているのが現実だ。たとえば今、マスコミがだめだ、政治がダメだ、などといったとしても、そのシステムができている時代の中で自分ができることはあまりにも限られ、そのシステムの中で適応していくしかない。反発や不満はあれど、そうするしかないと思っている。それが人間のバランス感覚であり、ダブルスタンダード的思考といえるのかもしれない。いや、ダブルどころかトリプル、いやもっと何段もの価値観を、場合によって使い分けているのがバランス感覚だ。
世界は成長し続けねばならないし、人は立派であらねばならない。そういった建前があるから、そうでない自分をめいっぱい適応させて、頭を働かせ、巧みに言葉を操り、その場を打開していく。その場の状況判断力が優れ、巧みに言葉を操ることが人間の価値の高さの一つであるとされる。頭がよさそう、安心できそうといった気持ちだけで、人は十分なのである。実体がどうかということについては深く考えないし、楽観する。
世界が成長を止め、人が身の丈以上にがんばらなくなったら、世界は滅びるのだろうか。わからない。現実は、そんな世界ではない、ということだけしか、わからない。もしも、人ががんばらなくてもよいならば・・・・・全てを把握したような、気の利いた言葉はもはや、いらない。昨日と変わらない、ささやかな幸せを求める毎日が、ただあるだけだ。「見せ方」なんて、本当はどうだっていいのに。