編集される言葉

言葉は何度となく編集される。わかりやすく、時に恣意的に吟味され、場に応じた最適な言葉を発しようと人は考える。よく吟味された言葉は明朗で、聴くものを納得させるほどにわかりやすい。
つれづれなるままに文章を書いていくと、内容に論理破綻や矛盾、わかりにくさを節々に生む。何も考えないで出た言葉は、お世辞にも聞きやすいものでないことが多い。わかりやすい言葉がスラスラと出てくる人は、それは発する前に脳内で言葉を吟味しているからに他ならない。
ただ、言葉が主要な情報として扱われている現代で、そういった生々しさ、わかりにくさも一つの親近感を覚えることもある。編集された美しい完璧な言葉は、結局コピーペーストと一緒で、それがいかに正論であったとしても、空々しく聞こえてしまう。コピーが簡単になり、パクりなどが日常化した中で、わかりにくさも含めた一つのオリジナリティもまた、魅力ではある。というか、個性がないコンテンツは、率直にあまり面白くなく、一般的である。
情報が肥大化すると、まとめや総括的な意見は、非常に耳に聞こえがいい。頭にあまり理解を求めずにすむからだ。自分が情報を噛み砕かなくても誰かが噛み砕いてくれている。ただそこに異物というか、編集者の恣意性が入ってしまっていることが、情報社会では恒常的に見られる問題であると思う。
編集はいっそのこと、PCのソフトににやらせればいいんじゃないかとも思う。まぁ、人間にとって面白いツボ、のようなものをある程度学習させなければ、とても面白くない記事になりそうだが。自分が受け取った情報がそもそも濁っていることは、それだけでなんだかとても許せない気持ちになる。俺はだまされていたのか・・・と感じる。
とはいえ、自分ひとりが探すよりはるか多くの情報を得るために、情報との付き合いは欠かせないと私は思っている。そもそも、何かしらの情報を「報道する」という時点で何らかの恣意性を発生させるというジレンマがある。ただ、現代の報道者は、恣意性をできるだけなくすような公正な報道をあきらめすぎているのではないかと思う。いや、開き直っているの間違いだな。知る権利、などというものがデリケートであるため、それらを監督し罰する機関がないのも一因だろう。
編集するのは仕方がない。なら、「この記事は編集されていますので一部内容が不正確な可能性があります」と注もつけずに、でかいツラで堂々と流されていることに抵抗を感じる。時に背後にある欺瞞を見抜けないと、情報に数多く触れていても、結局情報弱者と化す。
正しく情報を受け取り、解釈するためには、情報の背後にある問題を認識する教養、そして余裕、および意欲の3つを常時兼ね備える必要がある・・・難しいものだなぁ。現代は本当、ストレス社会なものだから。