透き通った世界

人間の快感のツボの一つは、「知らないことを知る」ことだと思う。「また、一ついい経験になった」「○○覚えた」とは、日常のうちによく交わされる言葉ではないか。
インターネットが普及しはじめた90年代以来、情報入手コストが一気に下がったことから生じたものは、未知なる体験の刺激の希薄化ではなかったか。あらかじめ、概要の情報が容易に収集できることから、新しい行動が「未知なる体験」というよりも、体験と想像のギャップを確かめる行為へと変質した。たとえ、そのギャップがとても取るに足らないものだとしても、人は自分の行動を正当化するために、意味を見つけようとした。
まぁ、人間の想像というものは、すごくボヤーっとしていてあいまいだ。すぐにコロコロ変化しうる。あくまで、想像は想像でしかない。すごく不正確で、自分の生まれ持ったバインド(環境、バックグラウンド)によって大きく揺れる。全体の1%の情報を得たところで、残りの99%は、人間の能力の一つである「汎化」やら何やらでその間を適当に埋めまくる。群盲、象ではなく情報を撫でている状態になるわけだ。
想像はすごくわかった気分になる。そこに、人の意見などがあればまた、それによって左右される。五感で得た情報が0であるため、もうそういった体験からひたすら想像するしかないわけだ。でも、ちっともわかっていない人も、わかっている人も、「結構わかった気になれる」という点では共通だ。
そんな風に世界を概要的に情報をもとにして見ていくと、世界は結構簡単に理解できる。体験しなくても、あらかた想像によって結果まで見えてしまうのだ。それが正しいものかは問題ではなく、「そうなんだ」と思えた時点で、自分の中では世界を理解したといえる。そうやって世界を一通り理解し、人は一息をつく。さて、それだけわかった上で、私はどうしようかなと。
最近よく「実際に行動することが重要・・・・」、「体験が重要・・・・」などと語られていることが多いが、要は世界を概要的に理解してしまって、それで完結した上で、ふと小さな自己を省み、いろいろと諦めてしまうことにある。井の中の蛙のほうが、大海を見渡した蛙よりも、世間知らずかもしれないが、元気ややる気は井戸の蛙の方が大きいかもしれない。恐いもの知らず、という意味で。
過程は、わからないと実にサバイバルでスリリングだが、すでに知ってしまうとそれはルーチン化し、退屈な作業と化す。既知の情報は人のモチベーションを下げてしまう。百里ゆくものは九十九里を半ばとすという諺があるが、最初にこの意味を知ったとき、こと旅人はどんだけ歩けるんだよ、と思ったものだ。
世界を一通り「想像」した後、人のとる行動は何パターンかに分かれる。その「世界」を全面的に受け入れるのか、まったくもってスルーするのか。想像は、自分にとってその事実を極大化して受け止めることも、極小化することも可能だ。極端な例を挙げると、もし自分が、困っている人は助けずにいられない存在だとして、アフリカで子供達が困っているとすれば、導き出される答えとしては、「直ちに助けに行かなければならない」である。それをあきらめることは、その情報を「聞かなかったこととしてスルー」するものと同義であり、自分という存在が世界の部分的な役割しか担わないことを認めることでもある。そう、自分の中で得た情報を、自分のご都合主義で変えてしまうのだ。まさに情報は「解釈しだい」である。
現代は、人から聞いた話に加え、インターネットから得た情報によって世界がより透き通って見える「と、思える」。あまりにも高い立場で物事が見えるがゆえに、自分という小さな存在すらその高いところから見つめてしまう。もちろん、ほかの全ての人々のように、自分も豆粒みたいになって見えない。自分が本当にその豆粒の中の一人の人間なのか。情報の波にたゆたうと、そんな小さな自分を認めたくないし、そもそも「自分なのか?」といった、自分が「何者でもない高次の存在」であるという感情が芽生え、自分という存在すらどうでもよくなるといった、現実世界すらバーチャルに見えてしまうボヤっとした感覚がある。
こういったブログもまた、「自分が高次な存在であると誤解させてくれるインターネットのツール」何だろうな。少なくとも私にとってその側面はある。現実逃避しているのか俺は・・・・。そんなつもりはないんだけれどもね。自覚症状がないぞ、重症か?