本能の行く先

欲望を満たすためにただ時間を消費続けるということが自分の人生にとって幸せなのか、それともただ無為な時間に過ぎないのか、頭で考えてもあいまいな答えしか出ない。欲望を満たして満足した時間を多く作ることが幸せなのか、上位目標を達成することが幸せなのか。
金を多く持つことや、仕事をやめて悠々自適することが必ず幸せには結びつかないらしい。人間の本能というやつはいってしまえば「ないものねだり」をし続ける部分があり、際限がない。あるものは、すでに充足されているので、手に入れた瞬間からその価値を半減させてしまうのである。際限なく求め続けることが求められるのが資本主義社会でもある。
毎日、ほんのささいな選択をしている。長期的目標への投資をとるか、目の前の満足を取るか、そんな択一を選ばされることはしばしば。自分の体が欲していることを満たしていくことは、幸せにつながらないのかと思う。
まあ、日々消費する欲望というのは、ほんのささいなことで、カードゲームで言えば☆1つくらいで召喚できてしまうほどの簡単な行動、そしてとりあえずの満足である。☆が3つ、4つとなっていくにしたがって、難易度が高い分、達成したときの喜びも大きく、そしてその効果はしばしば持続する。それは、賞賛であったり、地位であったり、金であったりする。そういった長期的目標を達成することもまた、人間の本能といえばそうなのだが、不思議なことに両者の欲求を満たすための行動はしばしば対立する。
長期的投資を優先させるために、目標を書くとか、習慣化させるとか、いろいろやり方はあるにせよ、どっちをやるべきかってのは結局気分しだいである。長期的投資もまた、苦痛とともに安心感があり、「俺って生きていていいのだな」と思えたりすることがある。短期的欲求をただ満たし続けることは、時に喪失感やむなしさを感じるときがあるのですよ。これでいいのかと。
人類の価値観としては、長期的目標への投資をとりあえず尊ぶ風土があるが、それが「正しい選択」なのかは結局、信条の問題になる。まあ、感じ方や価値観は人それぞれ大きく異なるから、まずそれを概要的に語ることがナンセンスではあるのだが。
何が言いたいかというと、欲望のままに行動して自分の目標としているものにたどり着けるのならば、それはとてもよく、「何の理性的努力もなしに」目標は達成できることになる。ただまあ現実は学校や仕事など、色々楽しくない場面も出てくるわけで、そこでどう行動するかという部分を、本当に自分の本能が正しいと思うのか、それとも自分を殺すのか。私は、自分の本能のままーに行動するケースが多い。イヤだからやらない。だが、イヤだからといってやらなければならないこともでてくる。そこでどうするか、どこまで妥協し、どこまでを本能で動くのか。そこが選択の部分であり、日々の感情のゆらぎの部分でもある。
日々を過ごしていくことに満足するのか、生きがいの目標を見出すのか。その行動思考もまた、遺伝子の部分でプログラムされている気もするが、人間は同時に環境にも影響される。ある偉人の本を読むかどうかで、その人間の行動、人生まで大きく変わり得る。
少なくとも現代は、本能のままに行動すると即刑務所行きになるわけです。自分の行動の正しさのよりどころをどこに求めるのか。宗教の教えというものがあまりない日本は、周りの(尊敬する)人を、行動ではなく精神まで「マネて」、生きていると思います。その行動を選択する際に顔を出す、個人個人の「本能的欲求」が日夜、頭の中で戦いを繰り広げている・・・・・のかなと思いました。結局、結果論、経験的にしかだせない答えだなぁ。