他人にされたいことをできるか

友達が好きな言葉が、「他人されたいと思うことを自分がする」というものだ。自分が話しかけられたいと思うことは、他人がそう思っているということでもあって、ただ相手からのアプローチを待つのではなく、自分から話しかけてあげることが大切なのだと。非常にためになる言葉だし、いろいろな局面で使える言葉だなと思う一方、自分の感覚が周囲と比べかなり離れていると、それがしばしば行き違いやおせっかいを生むのではないかという懸念にさいなまれる部分もある。
自分は才能で言えば特に何の変哲もない一般人、というか身もふたもなく言えば使えない部類に入ると思う。そして感覚的にはカテゴライズするならば「オタク」でありかつ「非コミュ」でかついわゆる世で言う「変人」の部類であると推測されることから、自分がいいと思う感覚がしばしば他人に迷惑をかけてしまうのではないかという臆病さを生む。
それを勇気がないという一言で終わらせることは非常にわかりやすい結論だが、実際に自分が思うことというのは非常に一般の人から見て「変」で「痛い」行動であることはよくあり、それはしばしば「他人がされたいこと」というよりもむしろ自分がしたいだけ、という自己満足に陥っているに過ぎないと思わされることがある。
ここで思考はしばしばループする。他人がされたいこと、と思っているが、それはすでに俺が深層心理の中で俺がされたいことであると思い込まされているだけで、単純にただ「俺がしたいだけなのではないか」と思うとその行動を行うことに二の足を踏む。また、俺がしたくないことで、他人がされたいと思われるだろうことは、ただ俺がしたくないという非常に利己的な理由によってその行動は顕在しない。そこで自分という存在をどれだけ軽いもの、そしてコミュに関する価値をどれだけ高いものであるかを見ることがポイントであると認識はしているが、そう思うことができない。そう思うことができないことを無理やりそう思うとすることは苦痛で、顔は引きつるし、行動はぎこちなくなる。俺は行動を縛られることと、やりたくないことをするのは嫌である。
俺がしたいこと、他人がされたいことの区別が、考える主体が俺であるがゆえに深層心理でバイアスが大きくかかり、正しい判断をできていないと推定すると、ただ思ったままに行動するのは危険ではないかという結論に達する。それは単なる行動からの逃避であるというバイアスもあるから、時に行動はするが、結局慎重さを求めていき、他人の迷惑がかからないようにかからないようにと石橋をたたいていくと、「行動しない」「傍観する」というのは、現状を壊さないという意味で非常に有力な選択肢に見えてしまう。
もし、俺がイケメンなら、(※ただしイケメンに限る)的な許され方をするため、行動する勇気は増大するだろう。また、俺がきわめて常識人であるならば、一般人の感覚とさほど変わらない形で人を思いやることができるだろう。また、俺が極めてコミュニケーションに重点を置く性格であるならば、干渉されたくない、一人の時間がほしいという思いよりも他人と何かをすることが楽しいと思えるならば、もっと素の自分で他人がされたいことをもっとできているのかもしれない。
と、いかに自分が行動できないかを言い訳全開で書いてきたわけだが、他人されたいことをする、と言葉で言うことと実際に行動するにはなおもう少しの飛躍が必要なんだなと思いはする。他人とはやはりバックグラウンドは違うわけで、こういうことを聞いていいのだろうか、ここまで踏み込んでいいのだろうかという部分に関してそもそも慎重であるがゆえに、少しの問いかけにも配慮と勇気を必要とする。 
人間は決め付けや行動主義、そして愚者であるほうが結果としてよい者を生むことがしばしばある。まぁ、そんなことを考える暇があればなんでも行動してトライ&エラーしろと自分をふるいたたせつつも、なお思考のループにとらわれてしまいなかなか思ったことを実行に移せないなぁ・・・と考えるのでした。人間の心理は本当読めないな。読もうとするほうが愚かなのか。