人の生き方の方針とモデル

人生は緩やかなしばりのもとで生きていられるが、節目節目でしめる。日ごろ楽をして、節目でいかに要領よくがんばって成功させるかがひとつの理想的な生き方の価値観となっている。シューティングゲームは基本的に前半はノーミスでないと後半にそれを取り返すことはできないが、人生はその節目にステップアップのチャンスが待ち受けている。それは、明日からがんばれるという希望でもあり、今日やらない人間は明日もやらないというしがない結論でもある。人間は枠にとらわれればひと時の暇さえも恐れ、楽しめなくなる。ゲームがスタートしているのに、自分だけが前に進めていないようなあせりの気持ちである。そういった強迫観念が人を成長させるのか、精神をすり減らされるのかを結果論で語っても意味はない。
緩やかなしばりもまた、限られた情報しか持たない自分や自分の周辺がが設定した枠組みに過ぎないが、その緩やかさがきついものになるか、そうでないかで人は一喜一憂する。世俗的な物事に一線を画するニヒリズムを演じる時間があるのはせいぜい大学時代+αであり、日々の思考は現在入力されていく情報によって日々書き換わる。思い出というしるしだけが残る。
人はきつく自分縛ってほしい願望があると言えばマゾヒストにしか思われないだろうが、自分を成功に導いてくれる何かきつい縛りを潜在的に求めているの部分がある。与えられた厳しいメニューを文句なく日々こなせるのも、それが自分を無自覚的に高めてくれるという一種の信仰があるからに相違ない。そう思わされている、というべきか。
物事には原因と結果があり、それが明白でないものは行動として無為に終わる、はずはなく、行動や経験にムダはありえないと固く信じていた時期があるが、そりゃまぁあらゆる行動派絶対的にプラス量であるかしれないが、自分の時間というマイナス分を投資しているから当然ともいえる。時間は無限であると固く信じて疑わなかった日々が、俺にもありました。今からでも年齢をマイナスできんかなと思う。結局相対的な話で、自分の行動におけるプラス量の幅は世間の平均的プラスにくらべて高いか低いかによって自分の行動の社会的価値ははかられてしまう。まぁ、行動をそもそも正確なプラス量で図るという問い自体が、正確に測る計算方法が明確に存在しない以上、ナンセンスでしかないが。
結局、いかに楽をするか、という話にも続きがあって、たとえば勉学に費やす時間を最小限に抑え、その時間をどう有効活用するかが結局のところその後の人生を左右しうる以上、常に人に休みはないとも言える。常に休みはない中でも、自分の行動を楽しみ続けることが楽しそうな生き方に思えるが、結局自分の欲望のままに生きることは自分の不健全な精神が表出するだけに過ぎず、とても勝ち続けることはできない。適度にバランスを保ち続ける感覚と、行動力が、大きく明暗を分ける。生き方に確たる答えはない。
最後に思う。
なに考えて人が生きているか、どういう信条があるかなんて、公言している人間はまずいない。いればすげえ参考になると思うのだが。自慢はいい、表面的なおためごかしもいい。そして実現できていない理想もいらないから、納得のできる語りがほしい。現代の社会において自分が不満があるとすれば、言葉でしか語り合えないことが、人を表面的な付き合いにとどまらせているかもしれない点だ。もっと、言葉には気持ちを大盛りのせて語ってほしい。人間の本心は醜く、ときに目を背けたくなるものでもあるが、きれいごとや表面的な話題ではなく、説得力のあり、体現している人の行き方の方針とモデルを、自分は知りたい。そりゃあ、笑いも涙も楽しいが、たまにはね。しっかし、現代の流れにはまったくそぐわなさすぎてバカバカしささえこみ上げてくる話ではある。