Web上のムダパワー

もしもすべての人間が常に合理的に、生産性のある行動をしていたならば、世界はもっと飛躍的に進化を遂げていたのかもしれない、などという妄想を一度ぐらい抱いたことはないだろうか。
Webを見渡せば今日も、「社会的に見て生産的でない」行動に情熱を傾け、もとい暇つぶししている人がたくさんいる。オンラインゲームにだって、ブログにだって、2chやその他掲示板にだって、ニコニコ動画にだって、たくさんいる。ニコニコ動画の作品群やコメント職人を見ていても、これドンだけ時間と労力かけてんだと思われるものが本当にたくさん見受けられる。
もちろん、何をしようが人の自由だし嗜好も自由だから好きにしていいじゃないかという意見はもっともな話である。よくニコニコのタグに「もっと評価されるべき」と書かれてあるが、じゃあなぜ正当な評価がされる方向に力をそそげないのか?と不思議に思ったりもする。
多くの人が「不遇にも」評価されていないのならば、正しい方向に力を注げばいいじゃないかという話だ。人間誰だって自分が幸せになろうとそれなりに考え、それなりにがんばっている。それにもかかわらず、なぜムダな方向にエネルギーが注がれているのか。
それはやはり、社会のシステムのどっかがおかしいんだろう。人間を最大限に利活用されるようなシステムに社会がなっていないとも言える。もったいない話である。
ゲーム好きな人は喜んで自分のキャラクターを何十時間も時間をかけてレベル上げをする。でも「自分」というキャラの社会的なレベルは上げ方はわからない、もしくは非常に苦痛を伴うのである。脳が、自分の意思が、やりたくないやりたくないと必死でいやがっているのだ。だから一種の逃避という形でゲームなり、趣味なり、その他いろいろな時間つぶしの方法がいろいろとできてきたのだ。
巷ではネット依存がだめだ、ゲーム依存が問題だなどという言説が巷を流れている。多くの子供たちがDSやケータイ、ゲーム機に費やす時間が多くなっている、由々しき問題だ、と言う。
だが、問題は別の所にあると思う。単純な話、現実の世界には、ゲームのように脳内にアドレナリンがどんどん分泌されるような出来事や行動の手段がない。何に力を注ぎ、夢中になればいいか、その対象がなかなか見つからないし、たまに提示されるものといえばそれはとても苦痛な課題なのである。
だから、たとえゲーム機をなくしたって急に勉強しだすわけではない。だってつらいもの。ほかに何か遊ぶものを探そうとするだけである。
残念ながら、社会のシステムは急には変わらない。だから今日も私はWebにムダにパワーを注ぎ込むのである。それがとても楽しいし、快感だから。それが世に言う幸せにつながるのかはわからないが、今日も本能に忠実に行動している。いろいろと後悔することも多いが、それは仕方ない。そうしてWebは今日も人類のムダなパワーがふんだんに注ぎ込まれ、活気ある状況となっている。ニコニコ動画も大盛況。