心が出力するあいまいなもの

心ってやつは実に面倒だ。ロボットなら「お茶が500ml足りない」といった定量的でわかりやすいアラームを鳴らしてくるが、人間は「のどが渇いた」これだけですよ。果たして今、自分がお茶を飲んでいいのかどうかわからないじゃないかと。飲んだら眠くなくなって困るのではないか。では、水ならいいのか。「水はいやだ」うるさいだまれ。わがままなものである。
心がだすメッセージがあまりにあいまいであることは人間という存在をいきにくくしているのではないかと思うことがある。進化の過程だから最適なのだという論理は一見うなずける部分でもあり、たまたまではないか、うがちすぎな思考ではないかと思うこともある。自分で自分がわからないということは本当にまどろっこしい。心なんてうっとおしいだけだと思う。機械であろうとすればするほど、人はすばらしいアウトプットをだせるはずだ。
上記は極論としても。俗に言う自分探しというやつも、自分にそれほど自信がない、自分がないしわからないというところに起因する。最もわかっているはずの自分がまったくわからないことは自信のなさにつながる。非効率であることが人類を発展を導いているとすれば、なんとも不思議な話である。
結局、あいまいなものをいかにはっきりさせるかに人は労力をさいている。行動の前段階の部分で、内で躓いている部分があるわけだ。まずは行動してみるべきと多くの啓発本がすすめるのも、そもそもにおいて行動しなければ何をしたいかが内の部分でとまってしまい、そもそもアドバイス仕様がないからではないかと思う。外に出た欠点をいい連ねることは、いっても簡単だからだ。人の心理を推測するなんてばくちを当てるよりもひねくれていて難しい。
あいまいさをただ嘆くことは生産的ではないためこれ以上は控える。あいまいさを言葉にすることによってあいまいさを排除することは、ある意味で味気なさや可能性をなくすこともまた確かである。黒だ白だと悩むのもまた一種の楽しみの過程でもあり、そこが人間らしさ、人間模様でもある。そのあいまいさを残すことは誰が何のために必要なのかはよくわからない。自分が絶望で自殺しないために必要なのか・・・う、それは一理ある気はする。自己満足が行き交う現代を顧みると特に。
あいまいは度が過ぎると何もわからないし、何も意味を成さない。曖昧さは時にずるさでもある。その場を回避する手段でもある。ああ、自分は人間の態度があいまいなことをいいたいのか、心のアウトプットがあいまいなことをいいたいのかがわからなくなってきた。実にあいまいである。あいまいな、話である。