徒然にめぐる思考

一ヶ月ほど文章を書くという意欲や動作をすることがなくなった。習慣がなくなったからだろうか。時折、ブログを思い出すということはあっても、あえて何か書こうとする気持ちにならなくなった。
自分の意欲や興味は、基本的にコントロールできない。嫌いなものは嫌いだし、好きなものは好きだ。かつて好きだったことが、たとえ好きではなくなったとしても、それをどうにかすることができない。仕方ないことだ。好きであろうとし続けることにも、労力と努力がいる。
自分はひとつのことにのめりこむタイプだと思っていたが、どうやら飽きっぽくもあるようで、興味がほかへ向くと、以前のことを忘れてしまう。薄情なものではある。それだけ世間にはさまざまな世界で面白いと思わせるものがあるという事実がある以上、その善悪は図りかねるが。人の一アクション後の行動は、推測して読み取ることができても、心理の移り変わりは予想できない。体調や年齢が心という概念に及ぼす影響がわかっていない以上、そこはブラックボックスである。そこに確たる予想を立てることはできないし、カオス理論的にどういう結果をもたらすかは類似予測できない。
今日はラーメンが食べたいなあ。あの子を誘って行きたいなあ。あの仕事を終わらせなければならないなあ。あれをしたいなあ。これもしたいなあ。あれもやらなければなぁ・・・頭を様々な事象がかけめぐるが、そのときそのときの最善と思われる行動は全体を見てはいず、最善ではありえないが最悪な行動を避けるという意味で、ルーチンを思いついた順から実行していく分には意味がある。自分を振り返ったり全体を見渡したりというのは、ちょっと余裕ができて、はじめて選択肢となりうる。でもなかなかその行動をとらない。観測、思考はムダとなりかねない側面を持つことを自身が認識しているからだ。言い換えれば、思考すれば、アウトプットを必然、出さなければならない。
千々にめぐる思考の中で、最適な休暇とはどういうリズムかを考えるときがある。人間は自由でありすぎても、拘束されすぎても不満に思う。うまくやっていくためには、自分のアルゴリズムに仕事を合わせる必要がある。休みすぎても思考やスキルなどのアウトプットは見込めず、体液ぐらいしかアウトプットできないことは、過去自分が休みを取った経験上よくわかった。もう休まなくてもいいよ君。休んでもムダだよ。もちろん週に一度くらいの休みというのは精神的リラックスという面において有益である。線として張り詰めていた一本のピアノ線が、いくぶんゆるまったかのようなゆったりした気分を味わうことができる。その平凡な幸せ以上のものを、もう求めない。かつて自分は平凡がいやだったと思ったが、人並みというやつになるのがどれほど平凡でないかを様々に感じた。ちっとも平凡じゃない。それほどに俺は、人のことを見ていないということか。
進歩はもうしなくてもいいから平凡な幸せをつかみたい。今自分は心から、そう思う。まぁ、この強い今の自分の思いも、時とともにまた飽きるのかもしれないけれどもね。
7年たつと人の細胞はだいたいいれかわっているのだから、自分は以前の自分ではありえない。自分という地位と概念を持った別人だ。自分が以前の自分である必要はない。楽しく、しばられずに生きよう。それがきっと楽しいはず。