体験する確率

「自分にだけは大丈夫だ」と感じる心理ってありますよね。事故にあう確率や、病気になる確率。ああいった確率を過小に見積もりがちな原因として、低い確率にぶちあたった人に出会わないことが挙げられるでしょう。または、当たっても言わない。言えない。
日本には「健全に?暮らしている人」ばかり周りを見回したらいるようで、自分だけがおかしいのかと思ってしまう時があります。ただ、「周りを見回すことのできる場所」というのはだいたい、サンプルに偏りがあります。それも甚だしく。いくら外を歩き回っても引きこもりには出会わないのと一緒です。世界がリア充でできているかのように感じてしまいます。
ただ、インターネットはその不可視部分を取り払っているがゆえに、インターネットと道端における、たとえばアンケートでは違った結果が出る。回答者層の違いですね。年代ではなく、生活スタイルの区分というべきか。自分が世界のすべてだと感じている世界は、あくまで限定的なものに通じる常識にしか過ぎないわけです。
話がやや飛びます。インターネットにはいわゆる見る専の人がたくさんいますが、それはタイプ別の構成比のゆがみにさらに拍車をかけています。ホームではよくしゃべるが、アウェイではあまりしゃべらないのは人間心理としてありがちなもので、あえて言わないことを美徳とする。言うのが面倒くさいというか、わざわざ言わないというか。知っていてもいわない。
そういった心理的なものを考慮せずに日常を暮らすと、生活エリアによってまるで別の常識がまかり通っているかのような違和感にかられることがある。もちろん根底では共通している部分はあります。ありますが、物事の捉え方や常識、世界観が違う。違う世界観が出会うと衝突し、互いを排除しあうか、干渉しないかのどちらか。
頭の中で考えた単純な確率と、体験する確率には、上記のような影響をとりあえず考慮していないから、真の確率を見誤る。実際、確率を故意に見誤らせるような商法は後を絶たないし。
何がいいたいかといいますと、体験している確率は自分の頭の中で絶対的な真実のようにおかれているが、信用ならないということです。いろんな影響考えていっても、きりがないときもあるが。