見られている「自分」を想像する

自分は、自分のことを生まれて以来連続して知っているが、出会う人は、自分の中の一部しか知らない。だから、ギャップや勘違いなどが必ず出る。私は基本的に自己中心的な人間であるがゆえに、あまり人の立場に立って物事を考えることはついぞないのだが、最近、自分が思っている自分と、他人から見えている自分にギャップがあるなと感じ始めたので、「見られている自分ってどんなもんだろう」ということを少し意識した。
まあ、いかに自分をよく見せるかというのは、できる奴やリアルに充実した人間は意識せずとも、いや相当意識した結果として、日常的にその効果を表現できているのかもしれないが、そういった部分を面倒くさがる自分としては、まぁいいや、なるようになるだろう、以上の感情はわかない。ありのままの自分でいいやというのは、なんとも都合のいい言葉である。
自分が人の内面や心理をちっとも見透かせないように、相手も自分を見透かせていない。根本的に、私は「自分が見透かされている」という前提で物事に接しているんだと思う。自分についての知識を、伝えてもいないのに伝わっているとなぜか勘違い、いや都合よくわかってもらっていると解釈している。実際は見透かすどころか名前すら怪しかったりするのに。人への興味、という以前に自分の内なる感情の処理に精一杯だというのは、なんともかっこよくない話ではある。
先ほど、見られている自分の日ごろの行動から得られる印象を想定したところ、意外と悪くないんじゃないかという結論に達した。手前味噌&ナルシスト乙。というのも、そういった部分的に見られている評価より、自分は自分自身の全体を知られているという前提で自分を評価するので、クズな部分がたくさんでてきて、常に評価は底を打つわけです。逐一自分のダメだところを考え出すと、頭を抱え、欝だ・・・・と、引きこもりたくなるほどに。ところが、部分的な自分は、自分にとっては虚構の自分ではあるのだが、意外といい評価であったりする。うん、しかし評価ってのは結局第三者が行わないとダメだな。自分が自分を客観的に評価しているとは思えん。
自分か。朝起きたときの自分、仕事をしているときの自分、いまこうやってはてなで徒然と書いているのもまた、自分である。そう考えると、人が人と付き合うということは、本当に一部なんだなと感じる。人が人を理解し、わかったというにはおごがましいほど短い。まぁその「距離感」になれれば、あくまでその距離感、関係において円満でありさえすれば、なんだか、自分は人を理解できている気がしてくる。それは勘違いにすぎないんだけれども。彼(女)が私にそういった姿を見せ続ける限り、それが彼のすべてであり、それ以上の部分を理解する必要はなく、彼の態度もまた、変わらない。踏み込まなければ・・・。
一人の時間はさびしくもあり、また楽しく、これで十分だなとも思う。最近気づいた法則に「職場に異性がいると、みながやる気を出す」があるが、まぁ、計算高く物事を考えてもうまくいったためしがないので、頑張りすぎず、かといってクズだといえる自分は極力出さずに、日々給料を楽しみ生きるのもまたおかし、というところですか。