感情をリセットする「スルー力」

殺害動機は不可解、厚労省幹部ら困惑
↑の事件とほんの少しだけ関連あることで、思ったことを少し。
人間には物理的にできないことと、心理的にできないことがある。電車の中で大声を叫ぶことは、誰にでもできることだが、誰一人としてしないし、また見たことも・・・ほとんどない。そうすべきだというメリットも必要性も感じないからだ。
しかし、何か理由があって、そうしなければならない時になると、する。状況に応じてそれは二通りあり、ひとつは周りの環境が変わった(たとえば助けを求めなければならない局面になったとか)場合、そしてもうひとつは、自分の世界が色を変えた時である。
簡単に言えば、自分の中の行動規範や優先基準が変わり、非常事態モードになったとき、周りの感情や都合、迷惑<俺の都合!になる。そうどうしてもやらなければならないと思ったときには、自分的に手段を選んでいられないことがある。そのとき、人は思考、そして配慮などという理性感情をリセットし、自分がこうしたいと思う本能の感情に突っ走るのである。
まぁ実際は、本能的にしたくないことであっても、あえてやらなければならないことってのがある。心理的抵抗ある行動をとらざるを得ない時は、生きているとくさるほどある。イヤなんだがしかたがない。考え方を変える。また、自分に暗示をかける。自分は、どうしてもそれをしなければならないと思う。思い込む。とにかく思い込む。否定するような思考はせず、とにかく頭に叩き込むのですね。いわゆるシンジ君の「逃げちゃダメだ」のあれと一緒になります。自分の脳は自分の体を100%コントロールできないわけで、一線を踏み越えるには狂気が必要となる。じゃなきゃ、ビルから飛び降りることも原理的にできない。
自分ももう四捨五入すると30なわけで、思えば昔に比べて年をとったな(当たり前だ)と感じるわけですが、昔に比べて、どうなんだろう人は感情のコントロールがうまくなっているんじゃないだろうかと思うことがある。コントロールというか、「ある行動に対して無感情に行動する」という点において。
原因を探れば、日本が無宗教が主流になって久しいからだとか、道徳観がキャーイクサーンにあるのかもしれない。昔だってそういったコントロールが優れている人はいたと思う。しかし最近は、そういう意味での愚民が少なくなったというか、あれだ、素直に働くまじめな人、みたいな?そんな、無感情になることなんてできないという、人が少なくなっているのかなぁと思う。そういった感情をコントロールできるのは昔は支配者層、というか帝王学的な何かを学んだ人に限定されたのかもしれないが、今は教育とか生活とかはまぁなんだかんだいっても人並みな部分は受けられ、さらにインターネットによって、知ることができることがたくさん増えた。知ることがたくさん増えることは、すべてに当事者感覚を持ってしまえばやらなければならないことも飛躍的に増えてしまうわけで、それができない人間が自然に自分のブレーキというか、防衛策として自然に身についたのが「スルー力」である。考えないこと。できなければ、考えなければいいじゃない的な、いわゆるひとつのバランス感覚みたいなものを持つことがよしとされている現代において、ほかの「キレる」などの感情コントロールはだめでも、そういったスルー力」だけはうまく使いこなせる人が、昔に比べて増えているんではないかと思う。それもまぁ、世相といえばそうなのかもしれないが。
常識という枠をとっぱらって、感情をリセットした人間は、怖いね。絶対会いたくないね。会ったら逃げる。2ちゃんで言われる「無敵の人」とタイプが似ている。人の迷惑を考えられないんじゃなくて、あえて考えない。そもそもあらゆる感情やブレーキは人間の生死において必須ではない以上、それを誰もとめることはできない。
これも時代の流れといってはそれまでの話だが。「まさかこんなことはしないだろう」とタカをくくっていても、それは自分の常識観の中にとらわれた、かりそめの安心に過ぎないのかもしれない。人や経済に、「絶対」をもとめてはいけないことは、もう十分にこれまででわかっていることなのだから。