つじつまを合わせる

ふりかえれば、つじつまをあわし続けている人生であると思う。いかに怒られないですむか、いかにうまくやるか。怠けていた部分をどう取り戻すか。与えられた課題をいか楽をし、勉強しなかった部分を別の何かで埋め合わせする。社会で働き始めて、そんなつじつまを合わせるようなことも別になくなったかなぁと思ったが、いやいや全然そんなことはなく、むしろつじつまをあわすべきことが増えていっている気がするよ。忘れていたことへのつじつま合わせ。前任者の尻ぬぐいのつじつま合わせ。足りない経験値をなんとかやりすごす。やっつけでどうにかごまかす。久しぶりにあった友人と、仲のいいひと時を演出する。

つじつまを合わせるという言葉は、私は昔あまり好きではなかった。なぜなら、ちゃんとやっていればつじつまを合わせる必要がないからだ。子供のころからよくつじつまをあわさなければならない必要性に迫られていた自分としては、はぁ、つじつまを合わさずにすむようにもっとちゃんとせねばな、と思ったものだ。だが、元来の適当な性格からか、あちこちからつじつまの合わせなければならないことが山積みとなり、そのたびにいやなつらい思いをしながら、なんとかやってきた。今、振り返ると、よくもまぁなんとかつじつまを合わせてここまで来たものだなぁと自分でも苦笑いをしたくなるほどである。これからも多分そうなのかもしれない。三つ子の魂は百までだから。いやな話だが。いや、決して諦めているわけではないよ。

つじつまを合わせにかかると、余計な知恵であったり労力であったり、精神的苦痛が多分にかかる。つじつまをあわせる≒ごまかすの部分もがあるので、いかに自分の話がまるでそうであったかのように説明するために、知恵を使うわけだ。自分でもくだらねえなぁと思いつつ、かといって当面のピンチをしのぐ必要はある。あれやこれやと考えて、もっともらしい理屈を作っていく。自分はすぐ顔に出るタイプであるため、一度決壊し始めるともうだめですね。だますなら、ほんとうにそうであった、とだましきらなければならない。中途半端はいけないね。数年越しでつじつまを合わせるとなるとしんどいし、そのたびに精神的苦痛になるから。

なんだろうなぁ、怒られたくない恐怖というものが過度すぎた部分もあった。いい子でいようという部分と、怒られたくないというある意味当たり前の感情なのだが、別に怒られるべきことを怒られるのは仕方ないわけであって、それを避けようとし続ける部分が過度にあったと思う。怒られることがいやというよりも、・・・・怒られるという事象に恐怖を抱いていたというほうが、真実に近い。うまく言えないが。

まぁ、つじつまだけを合わせるのがうまくなっても社会ではどうなんだろう、求められている部分ではあるのだが、「つじつまのうまく合わせられる人間がほしい!」と求人しているところはまぁないだろうなぁ。社会人としての一スキルではあると思うが、あまりほめられないスキルでもあるからな。時に貴重だとは思うが。

つじつまを合わせないで人生を身の丈にあった形で生きたいとは思うが、まぁサラリーマンやっているうちは仕事でもそうしなければならないことはあるだろうし、しばらくはつじつまを合わせる場面が今後もあるんだろうな。サラリーマンの宿命か。いや、人間の宿命かも知らんね。