感謝し足りない

朝、布団より起きる。まずは今日も平和な世界に感謝する。今生きていられることは、別に自分が作ったわけじゃない。当たり前のようにそこにあるわけではない。歴史の積み重ねの結果、今がある。
脇にある眼鏡を取る。そして、眼鏡を発明した人に感謝する。眼鏡を発明した人について今まで考えることも、特に知る必要もなかったが、考えてみたらすごいことだ。まぁ一生あがいてもそんな発明はできないだろう。眼鏡があるおかげで、今日も世界を正しいピントで見ることができる。もし、眼鏡がなかったら・・・。なんてことを考えると恐ろしいくらい、眼鏡がない世界など考えられない。眼鏡がないならコンタクトをつければいいじゃない。いやいや。
起きて顔を洗う。ふと、自分が家の中にいることに感謝する。もし外だったなら、寒くてよく寝られないだろう。安心できないだろう。金を払っているから当然の権利だって?いや、まずはその金によって交換が成立する経済の仕組みに感謝してからだろう。そして、自分ではとても成し得ない、家を建てていただいた人に感謝する。それは、決して当たり前ではない。自分が一人で、できるかできないかを考えると、おのずとわかるだろう。
そして朝食。自分で作ることもあるだろうし、作ってもらうこともあるだろうが、まずは作っていただいた人に感謝。自分なら、五体満足な自分の体に感謝。親に感謝。そして、品目ごとの食べ物に感謝していかなければならない。もちろん、昨日からちゃんと食物を腐らせず保存してくれた冷蔵庫の製造者にも、感謝を忘れてはならない。・・・
人間は、人に感謝されるとうれしいものだ。現代は、間違いなく感謝に満ち満ちている。満ちすぎているがゆえに、逆に、あえて自分が鈍感にならないとうまく生きていけないほどにだ。私たちは明らかに多くのことをスルーしている。当然の行動としている。割り切っている。認識するのは、ある瞬間の感動体験を通じてのみであり、あえて日常の物事を再認識、再評価しようとはしない。まぁ私もしていない。
SMAPの曲に、「カンシャして!もっとして!」みたいな歌詞があったと思うが、今思うことは、心からの感謝、が逆にしづらくなっていると思う。俺は自分が感謝していると言う自分の言葉がウソっぽくて、かつ恥ずかしくていえない。シレっというやつはすげぇ。本当に思ってるかは別にして。

感謝する。過去の自分を振り返ると、本当に恩知らずな自分だなと思う。まぁ、社会が感謝でできているうちは、日本も大丈夫なんじゃないかと思う。あふれんばかりの感謝は荷が重く、今、一日をがんばって働いて返していくしかほかに思いつかない。

別に感謝されたいわけでもないが、将来は、誰かに感謝されるような存在になりたい。あれ、やっぱり感謝されたいんじゃないか!