インターネットという複雑系におけるルール作り

あらゆる人間は、時間的な限定と次世代への情報の非継承といった存在であるが故に、世界の全てを把握してはいない。部分的な情報のみを全てとして日々を生きている。
われわれは世界の全てを知らない。だが、世界の部分としてのわれわれが、まるで世界の全てを知っているかのように統制がとれたふるまいを示している。現代の世相を表出しているのは、全てが、「ルール」の存在を根源とする。
ルールとは、一つには、憲法だ。一つには、教育だ。人間の考え方をどう育てていくかによって、人間は相互に複雑に作用し、初期状態とはまったく予測できなかったような結果を生み出すこともある。初期状態のルールがわずかに違うだけで、その違いが世界に大きな影響を及ぼし得る。ルールは、あらゆるものの基本となる、大切な部分だ。たかがルール、されどルールということだ。
インターネットの世界は、また一つの複雑系である。世界の人々を巻き込み得るといった意味では、もっとも影響力のあるルールの一つと言っていいのかもしれない。インターネットにおけるルール作りは、それほど重要な意味を持つのだ。最近、巷をにぎわしているDLの違法合法論も、10年後のインターネットのあり方、姿に大きな影響を及ぼすのは疑いない。いい方向か、悪い方向かは、世界を相当深く予測思考する必要がありそうだが。もちろん精密に考えることは不可能だ。だが、やれるだけのことはやらなければならない。
ルールは、流れに従って柔軟に変更されうるものでもある。人々の要求と、時代における世間の感覚によって、新しい「常識」が作り出される。そこも、突き詰めて考えればそう考えるにいたった何か別のきっかけ、類似例があるわけで、ルールを作るには世界のあらゆるほかのルールも非常に参考となる。というか、ほとんどのルールはコピペといっていいだろう。一つの方向性、理念に沿って、ルールは決められる。
具体的な面倒くさいルールの細部はともかく、インターネットにおける理念なら、互いに議論し合える。どうあって欲しいのかという、至極単純な話だ。どうでもいいなら、どうでもいいでいい。個人的に、どうでもいいということは傍観者であり、その世界において真剣に存在を主張しようとしていないだけのことである。最近、真剣であることを見せることが馬鹿馬鹿しいかのように思わせるシニカルな世相を少し感じるが、まぁそれも、時代の反動なんだろう。
結論として、たとえば自分の大切な世界を守る、もしくは創るために、何をすればいいか。その答えは、深く想像し、学ぶことなんじゃないかと私は思う。想像と予測、そして行動に対する変化を先の先まで読む。人間、頭を使うのは疲れるが、せっかく鍛えればよく回るCPUが人間には搭載されているのだから、ある程度使ってあることは、健康にもよいんじゃないかと思う!
部分情報しかもたない人間たちが見る世界は、それぞれどれほど違って見えているのだろうか。考え方のまったく違う人間の話を聞くと、ふとそんなことを考えてしまう。