言ってはいけない境界線

Web上の発言を見て、おいおいそれくらいはセーフだろ、そんなにからむなよと思うこともあれば、明らかにアウトな内容なのに、なぜあまり叩かれないのだろうと不思議に思ったりすることもある。それが自分と世間(という名の何か)との常識の乖離なのだろうと思ったりする。
日常の行動から政治家の発言まで、アウトとセーフの境界線の見極めは非常に大切である。俺は思ったことを言った!だけだじゃ、世間は通らないらしい。個人的にはもうちょっと寛容であってもいいと思うが、実際の所、その発言がアウトかセーフかといった部分とはまた別の所に意図があるのだろう。
実際、「ムチャしやがって・・・」と思われるような過去の迷言、名言、暴言、発言は数知れない。現代の言葉狩りと言えばまぁ、そうなのかもしれない。この問題のやっかいなところは、明確な規定がなく、発言者の立ち位置によって範囲がコロコロ変わってしまう所だ。ああいえばこういう、こういえばああ言って批判を展開する。道義的責任とか倫理的とか、お前が言うなという突っ込みを入れたくなるような批判も数多い。
さらにタチがよくないものとして、特定のこの人が言えばだめだ、と言葉の許容範囲をことさら制限する方向へ向かわせてしまうような批判だ。話題性のある人は注目が、視聴率が取れるから、なんでもスキャンダルの方向へ向かわせる。これは時に行き過ぎた言葉狩りへと向かわせる。そんなことも言ってはいけないのか・・・と思う一方で、実の所はその人の発言そのものよりも、その人を日ごろ好きかキライかで批判、擁護を展開するような体をなしている風にも見える。日ごろ嫌われてると、何かのときにコワいものです。
後、その発言の真意やどれほどの信念で言っているか、が一つの判断基準になったりする。善悪はともかく、この人が本気でそう思っているなら仕方ないな、と思うことがある。信念ある発言は、外野の雰囲気すら一変させる。そもそも、確たる禁句(タブー)はあまり存在しない。マスコミが、私たちがどう感じ、行動するかで変わってくるあいまいなものだ。時には、自分の思っていなかった方向に論点が進んでいくこともあり、そういう感じ方もあるのだな、と立ち位置や感性の違う人に思いを馳せたりする。
Webや有名人の発言にとどまらず、私たちの日常のコミュニティでも、どういう話題までがセーフか、どういう行動までがセーフかを経験や雰囲気によって学んでいく。常に境界線を意識することで、コミュニティの一員として「問題なく」行動できるのだ。元来人はたいていなことは行動可能な、自由な存在であるが、その境界線の範囲を超えるにはある一定の、自分なりの信念がともなわないといけない。みだりに境界線を侵すと、世間から、コミュニティから排除される。
どこまでがセーフで、どこまでがアウトか。明確な境界線がもしわかるのならば、日夜、限界への挑戦を続けてしまう、ちょっと言葉を選ばない人々の犠牲も、少なくなるのかもしれない。