心にヨユウを持って世界を楽しむ

いつの間にか。自分を振り返ると、昔に比べ様々なものが楽しめなくなっていた。
なぜだろうと考えていくと、やるべきことが多くなったせいで、時間の余裕が持てなくなっていたからだな、とわかる。楽しめないってのはつらいことだ。常にイライラしていなければならない。ストレスもたまり、健康にもよくない。
今日も遅くなったなーと、自転車に乗って急いで家に帰りながら、ふと気づいた。〇分後、〇時間後の目的がはっきりしていると、”今”の濃度が薄くなってしまっていることに。生きているのはまぎれもなく今、この時なのに、自分はその世界を薄目を通してしか認識していない。
気がつけば、先の目的や目標は山のようにある。計画的に行動し、自制する。数ヶ月後のために、今我慢する。日ごろよく行っている行動だ。そういった自制のきく人間が、人生を線のようなものとしてみたとき、まさに合理的な行動なのだろう。だが、未来からでてきた、計画という多くの細いしがらみは、時に自分をからめとる。今っていう時間を、とても無機質な、何もないただ「俺の心臓は動いている」以上の行動を起こさせないようにしてしまう。
俺はどこへだっていける。何だってできる。自由なんだ。今はまっすぐ家へ向かっているが、途中で道を曲がったって、別にいい。そういう心の余裕が、自分の心を目覚めさせ、楽しみを豊かに感じさせる感性が戻ってくるように思うのだ。
睡眠時間が少ないと、頭は完全にセーフモード状態になっている。今をつつがなくしのぐことに意識の大半が集中し、それ以外の行動を取ろうとする意欲がもてないのだ。
なかなか人はバカにはなれない。思うことはあっても行動できない。だからこそ、バカやってることをみると、バカだなあと思う気持ち、そして少しの憧れと懐かしさを感じるのだ。昔は・・・・・子供の頃は、あまり深く考えず行動していたなあと。多くのことを知ることで、逆にその知識が枷となって、多くの行動を知らず知らずに制限してしまうのだ。みんながとっている当然の行動を、自分も取らなければいけない。そこに楽しむ要素は、なかなかない。
本当に心からあせらなければならないことなんて、人生にそう、幾度もない。つまらないことであせらされ、心の余裕をなくしながら日々をつまらなさそうに生きるのは、どうなんだ。俺はいやだ。
いくらでも楽しいことがあるのに、むなしさしか感じない。それは、一定以上のことを知りすぎたがゆえの業の部分でもある。インターネットは・・・刺激が強く、楽しすぎた(俺にとって)。
スーパーファミコンで、ファイナルファンタジー4を夢中で楽しんでいた、あの頃に戻りたい。あのドキドキする気持ちを、これからも持ちたい。世界を、新鮮な目で、見直したい。