あたりまえの事実をふりかえる

世の中は、知らないことだらけだ。ふと気がつけばそこに、「あたりまえの事実」があり、それを覚え、認めるように周囲から要求される。そうやって周りに、世間に、ついていくことが多い。
小学校の義務教育や、友達や家族、TVやニュースから、今まで実に様々な知識を得てきた。それは生活に役立つものであったり、行動の規範であったり、価値観であったりなど。日本にはそれほど強い宗教色もないので、特に強要されることも少なく、たいていのものは信じてるのも自由だし、選択肢は実に多くあるように思える。
知るべきことを知らないのは、情報弱者であり、時に罪深いことですらある。必要最低限の「常識」の知識は必須である。それら、知らないことについて、とりあえず、手っ取り早く結論だけ教えてもらう。学校教育でも、それがなぜ、そうなのかということは、逐一やっていたら時間が足りないので、とりあえずこうなんだという結論だけを人間に詰め込んできた。その結果、とりあえず外から見て、ある一定上の知識を持った、”常識ある”人間を多く生み出すのにはいいのかもしれない。が、それがなぜか、ということまでは教えてこなかった。
今まで学校で教えられなかったのだから、それらは覚える必要のないもの、というわけではない。
結果・結論は、その活動の集大成として、最も重要な部分であるとは思う。だが、その結果をどういう形で自分で受け入れる、その部分が、過程や背景を知らないと、間違ったメッセージ、薄っぺらいメッセージとして受け取ってしまう可能性がある。

私たちは生きている以上、何か行動する。ものを買う。人と、会話する。メールする。電車に乗る。トイレにいく。寝る。暑い。イライラする。インターネットをする、などなど。
これが少し抽象的になると、成人すると選挙に行く、海外の国の知識、税金がかかる。そもそも、なぜ生まれなぜ死ぬのかも教えてくれなければ、日々の食べている肉や野菜が、どういうふうに運ばれているのかも、なんとなくの知識はあるが、よくは、知らない。

もう、今まで何百回と繰り返し経験してきたことでも、その行動の意味について深く、考えようとはしない。なぜか。どうしても、知りたいわけではないし、知らなくても死ぬわけではないからだ。もし誰かが、懇切丁寧に教えてくれるか、必要になりそうなら、まぁ聞いてやらんでもない、程度の話だ。
たぶん、普通の人は、家の瓦について、あれこれ思いを馳せたりはしない。そこにあるもの、それ以上の理解はない。それ以上理解するときは、自分がそれに関わるか、自分がそれを必要となった場合である。その時人ははじめて目を向け、興味を持つ。
たとえば電気とか、私にとっては正直感電するとこわい、以上の存在ではない。色々なものが、そのシステムや仕組みについての理解を意識しなくとも使えるようになっている。とりあえず使えるという「結果」を享受しているのが現代の社会である。

ふと、周りの風景を見たときに、そこにモノがある、以上の感想をもてないのは、何か非常に残念な気がしてならないのだ。いいのかそれで。一生知らないままってのは、私はいやだ。そりゃあ、時間的制約などの限界はあると思う。だけど、日々、TVをみたり、メールを打ったり、ネットをしている「結果」だけを楽しむだけでなく、ほんの少しでも、「そういや、不思議だなぁ」と思えるような、ちょっと視点を変えられ、興味を持てるような人間であるほうが、人生の幅が広がるし、楽しいと思う。いつもそこにあるあたりまえの事実は、実はちっともあたりまえではないことも多いのだ。