立ち位置が違う人の議論は面白いなあ

京大生が語る高学歴エリート難民論争 小飼弾氏が異論 を読んでいて、ふと思ったことを。
ブログに、長文を書こうと思うくらいに真剣になったエントリを読むと、ある種の楽しさを感じる。
そんな気兼ねなくぶつかることって、日常では本当あり得ないからなあ。
体面を気にせず、ある一定以上の真剣さをもって書く。イタかろうが、本当にその人が内心そう思っていて、それが文章として書かれたものであるなら、そういう内心の意見を読むことで、「人」への理解が深まる。
まぁ、エントリの意図を読みだすときりがないよ。わざと煽って書いてるなとか、シニカルな立場で書こうとしているなとか。そこまではわからないにしても、その人の環境から形成された、性格、考え方。確立したバインドを感じる。
私は、タテマエの会話やコミュニケーションの潤滑油のような会話は、大切だと思うが、ノリ中心での会話が続くのはあまり好きではない。議論とまではいかないが、もうちょっとその人の考え方なり、立ち位置、その人自身を知りたい。実のある会話がしたい。そういう会話はなっかなか深い仲にならないとなされず、残念だと思うところだ。
もし、理想的な社会があったとしたら、たとえば政治にもうちょっと関心があって、そういう会話が日々様々なところでなされているんじゃないかと私は思っている。それぞれの考え方を聞くことを通じて、その人を知る。そういうコミュニケーションは楽しそうだし、充実感を感じる(私はね。だからブログを書いていたりもするわけで)。もちろん、嫌悪感だって感じるかもしれないが、感情があらわれる部分ではある。
当たり障りのなく、ノリ中心の会話が多い現代、その背景には、一人の人と接する時間が少ないがゆえの現象かも知れないが、その人が感情的になる部分こそ、むしろ聞きたい。俺は別にヒイたりはしない。イタイ意見を言う人は、イタイ意見を言うことを恐れる人よりも、勇気があると思う。
人間って感情に囚われると本当、何しだすかわからないから、あんまりその人の敵になるようなことはしたくないなと思う。この思考がタテマエのコミュニケーションを生み出す。人の心はもろく、本当にその人の痛いところを笑顔で突き刺してしまうと、後が怖い。妄執や陰鬱に囚われると、人間、希望が持てなくなるし、何もできなくなる。行動すら起こせない状態になるのだ。ただ一言が頭をもたげて、気になって、気になって、他のこと考えようとしてもできなくて、それくらい人は感情に囚われてしまう生き物なのだ。表面的には、なんら変わらないように見えたとしても。
だから、Web実名制は本当にあり得ないと思っている。Webという仮想世界、仮想人格の中で議論を戦わせることは、一種の緩衝材となる。その、本音がだせる所にWebが生み出している面白さの一端があると思っている。
もちろん、Webに身を入れてしまいすぎるが故に、心が傷つくことはある。しかしだからといって、傷つけた人をどうこうすることはできない。たとえ怒りの感情に囚われたとしても、目一杯頑張って、非生産的だとは知りながら、荒しを行うことくらいだ。罵倒の書き込みですんでいることは、ある意味いいことですらあるかもしれない。
世の中に、書きたい、主張したいと思っている人はもっとたくさんいると思う。今は書くというコストがまだ高く、報酬がそれほどないから、思うところはありながら、黙ってROMしている人が多いが、もっと、発言にかかる手間がなくなれば、より様々な意見が聞けるはずだ。なんだかんだいって、ネット世界は層が偏っている。異なる立位置の、日ごろはインターネットをしない人の何気ない意見も聞きたいものだ。その意見は、ブロガーの「俺が正しい、俺の言うことこそが世間一般の常識だ」と思っている文言の矛盾を、的確に突いてくれることだろう。