インターネットへの意識の差

常にインターネットに接続している人にとってインターネットは便利な世界、ツールである。

インターネットに接続しない人にとって、インターネットは、異なる価値観とわけのわからないことをしゃべる世界に過ぎない。

一日中に近いほど、インターネットと常につながっている人にとって、新たなインターネットへの入場者は、時に、無知であるがゆえにおろかな行動を取っているように見えるかもしれない。

インターネットに久しぶりに入った人にとって、ネットでよく活動する人々が何を言っているのかがよくわからない上に、すごく入っていきづらい。行きづらいが故に、「あいつらは・・・」とレッテルをはったりする。興味も失せていく。

インターネット。便利ではあるが役割はあいまいだ。最初は何か、「きっかけ」がいる。PCの前でマウスやキーボードを使って一人、何かをし続ける光景は不思議だ。ネット・ライフスタイルを、自分の日常に取り入れることができるか。
違和感なく受け入れられる人もいる。そうでない人もいる。そこで、大きく隔たりができる。

閑話休題
頭で考えてイメージしても、見えていない感覚や事実というものは実に多くあり、実際にやってみたり、やってみてしばらく後になってから気付かされるようなことは多い。見えないものがある以上、そのものの行動の合理性についていくらあれこれ考えてもあまり意味はない。とりあえず、やってみれば感じはわかるものだ。

インターネットの無線環境が整っていくことで常時接続が実現し、常にネット上の動きを追うということができる日も遠くない。そんな人々と、使ったことのない人々の会話がかみ合わないのは、もはや仕方がない。なぜ使わないのか、と一方は思い、なぜ使うのか、と一方は思う。

ふと感じることだが、インターネットにはまるためには、なかなか敷居が高くなっているように思う。インターネットという広い世界にあって一種の区切りやコミュニティが形成されていく状況は、成熟期になるにつれるほど、よりコアでマニアックに、そして排他的になる傾向はある。

その結果、インターネットが、リアルの世界よりも生きづらいものとなってしまっていたとしたら、それはとても悲しいことだと私は思う。

インターネットがからんだ事件が絶えないのは、もちろんインターネットの人々への影響力ということもあるだろうが、今、このインターネットの世界の雰囲気が、本当は、後の人々から見てとてもおかしい状況だからではないか、と思う。

実名性や著作権、ネットフィルタリングなどの規制論が最近巷をにぎわしているが、本当は、人のこころや行動学について考えられた、インターネットの世界のルール作りがあるべきだと思う。