一日が加速してゆく

日々の中に自分を取り戻す瞬間がないと、一日はどんどん加速していき、自分という意識を失っていくように思える。生きているのが自分自身なのか、世界の傍観者であるか、その区別が少しあいまいになる。
一度加速しだすと、一時間でも、一日も、一カ月もあっという間に過ぎる。自分はその間時を過ごしたのか、記憶があいまいななかで時間がすぎていく。その中の自分という存在は、とても機械的で、無機質だ。自分が日々の成果を挙げたという数字だけに注目がいき、その中で自分が何を感じたのか、何を思ったのか、どう考えているのかなどといった「余分な」情報はそぎ落とされていく。
ただひたすらに生産と活動にいそしむ毎日は、すばらしい理想的な人間でもあり、よくみられる日常の風景でもある。それはとても自分が充実しているときなのかもしれないし、加速が別に、悪いとは思わない。

ただ、加速しすぎた末に、自分が何をしたかったのか。その目的をどこかにおいてきてしまい、自分をなくし、自分が社会の「風景」になってしまっているのではないか、と思う瞬間がこわい。

休日くらいは、時計をはずして一日を過ごしたいと思う。