自身の行動の客観的正しさ

私が日々人とかかわる行動をする上でよく葛藤することは、こうすれば人はどう思うか、ということだ。多かれ少なかれ、皆考えている話だろう。たぶん私よりも。
自分の行動によって人を不快にさせることを私は嫌い、恐れる。その背景に、私は社会全体に負の効果を与える存在となりたくないという気持ちが、理由の一つとしてあるからだ。
しかし、人がどう思うかについて相手の心理を読んで行動することは非常に難しい。なぜなら、日本人は自分の行動にタテマエの部分を入れる比率が非常に多いように思うからだ。心で笑ってなくても、心でむかついていても、平気で人は演技できる。表情で、態度で、そして言葉でも。はたから見ると、よくこいつそんなこと思っていないくせにずうずうしくいえるな、とか、ホントよく回る舌だな、などなど。社会人になると、その比率が大半になる。

すると、人の本音がどこにあるか、わからなくなる

哲学かどっかで、人はそのように演じていて、周りからもそう見えるのであれば、別にその人が何を思っているのか、それはうかがい知ることはできないし、知ったとしてもどうしようもないから、そのままをその人の全てととらえてもいいよ、みたいな論理があったと記憶している。行動が全てだというわけだ。だが、それを鵜呑みにすると、実際には痛い目や残念な気分になるのは、おそらく疑いないだろう。「こういう行動をとっているから、この人はこう思っているに違いない」という自慢の読みは、もろくもはずれてしまうわけだ。

自分はできるだけ人に対して、プラスの気持ちをもってもらう存在となりたい。そう思うと、人に対して、すごく内面まで踏み込めなくなる。自分の何気ない一言が、相手を傷つけるのが、怖いのだ。そして人は、言葉を一生懸命選ぶ。

しかし、それではダメなのだ。結局それでは、人と本当に深く、仲良くなれない。うわべだけの付き合いになる。そんなやり取りが際限なく続く世界には、寒々しくて、私はあまりいたくはない。

自分を出す。やりすぎるとウザく感じる。ださなさ過ぎるとその人の本音や気持ちが見えなくて、周りも踏み込みづらくなる。そのバランスを見極めてこそ、初めて人は自身の行動に対し、「これは正しい行動だ」という確信を持てるのだとと思う。客観的にみても、総合得点の高そうな行動を、とれるわけである。
世の中はほんっっっとうに色々な人がいる。正直、マジでびっくりすることも多い。そんな人の心を理解しようと、人の性格を推測し、適度に近づくことで・・・自分は、初めて「客観的に正しい」行動を取れるのだと思う。
自分の当面の課題としては、「人から見た自分」というものを考えなさ過ぎるなと思う。しなやかにカッコイイと自分がみても思えるような行動を取れる人間になりたいものだ。その人が心で何を思っているか、それが、わからなかったとしても。