説明できない良さ

言葉によって説明してしまうことで、陳腐化してしまうことは良くある。
私たちが「なんとなく、いい」と思うとき、その多くは、本当にどうでも良いけど少しだけいいと思っているわけではなく、確かにそれを選びたくなるほどそのものにはっきりした魅力がよさがあるにもかかわらず、それを説明する言葉をもたないだけなのだ。
意識としてイメージとしてもつとなんだかすばらしいものにみえるもののも、言葉として表してしまうとそれはありふれたものにみえてしまう。
世界には、説明できないような美しいものや良いものが多い。言葉で説明できないものなんかないものと同じだと思うかも知れないが、そんなことは決してなく、説明できなくてもそこに”ある”のだ。その何かは、言葉によって説明されたり、類推されることでその価値を失ってしまうほどのはかないものだが、その何かが人をひきつける。
たとえば、私がWebの良さを語るとき、どうしてもそこには陳腐な言葉しか出てこない。同じくサービスもそうで、クリエイティブな作品の批評だってそういう部分がある。自分はそれをすごくいいと思う。じぶんがなぜそれが好きなのか、考えたときには、いくつかその作品のよい点を語ることができるが、説明している自分は実は不満であったりする。自分はそんな言葉で説明しているほどのものじゃない、もっと多くのものをその作品から与えられているのだと。その一部の、わかりやすい部分を説明しているにすぎず、それを全て知るには、やはりその作品そのものをみるしかないと。そういうことが言いたいのである。だから、人はよく「すごいんだぜ!」「これマジでよかった!」などという感想を人に伝えてしまったりするのだ。伝えられる方からしたら、その「すごいんだぜ」がどうしても共有していないし、その言葉の表現しか捉えられないから、なんかわからないがこの人興奮しているなあくらいにしか思わないのだが。
居心地の良さ、作品の良さは、あえて語らずにいることで、そのもののすばらしさを、そのまま言葉にせずにそっと体験としてしまっておくと、解後感が気持ちいい。感性を研ぎ澄まし、ただ見るだけで、得られるものは確かにある。それはやがて自分の考え方や、感性によって後々少しずつアウトプットされていくものであって、説明できるような「私はこれでこういうものを得ました!」として説明できるようなものではないのだ。
意外と、感動できる作品とそうでない作品の差は、そういった「見えない、説明できない何か、雰囲気」見たいなもので決まっていると思うのである。
これからも、美しい、クオリティの高い作品と多く出会っていきたいと思う。
すばらしいモノ、人との出会いは確かに人を大きく成長させている、と信じる。