不特定多数に送るメッセージのむなしさと期待

送る相手の数によって、同じ言葉でも、その言葉の持つ重みは違う。twitterでもそうですね。そのメッセージをどういう姿勢で読むかが変わってくる。メーリングリストも同様の性格を持つと思う。
一対一だと否応なく反応しなければならないメールや電話と違って、メーリングリストtwitter、ネットの掲示板などは違う。当事者意識をもっても持たなくてもいいのだ。眺めていられる立場といいますか。参加してもしなくてもいい、自分の気分によって選択の余地が出てくる。これが不特定多数による距離感であり、プレッシャーが少ない理由である。
もちろん参加しないとさびしいのだが、一人で想像して(・∀・)ニヤニヤニヤニヤすることが決してキライではない私(ちょっとアレな人ですね(*ノノ)としては、行動をためらうことが多い。悪いクセだなあと自分では戒めているのですがね・・・。私は一度距離を縮めてしまうと、再び距離をあけるタイミングが非常に下手で、そこで気を使うのがイヤで、近づきづらいという部分がある。まあこれも場数だとは思うんですが。
以上の話をふまえると、一対一のコミュニケーションが一対十くらいになった段階で、当事者意識はかなり薄まっていき、そのメールを「読まなかったことにする」「なかったことにする」ことが可能になっていくる。とすると、送信者側では、メッセージが伝わったかどうかあやふやな、一種のむなしさや、不消化感が残るわけです。友人もこないだ、通知のメーリスを全体に送るときは、結構放置する人が多く、すぐ帰ってこないとめっちゃムカつく!と言っていました。まあたしかにそうだなぁ。でも不精で送るの遅れたりすることはよくあるなあ。
一方で、不確かではありますが、多くの人に伝わっているかもしれない、という漠然とした期待もまた同時にあるわけですよ。この期待感をおおく持てる人が、Webで不特定多数に情報や意見を発信する人なのかなあと、私は思っています。自分の書いたことを見てうれしく思っているかも、ひょっとしたら反応してくれるかも、もしかしたら自分に何かしてくれるかも・・・そんな若干夢見がちな期待を持てる人が、どんどん発信を行う。私なんかは、実際にまあないにしても、そういう夢見がちな想像をできるということ自体に結構満足を得ていたりしますが。アレです、あたらない宝くじを買って、「3億円当たったら、豪邸を買って、世界一周旅行へいって・・・」と想像するような感じです。0じゃなく、0.0001%くらいあると、何か楽しみがもてます。
まぁ実際はそうであるかどうかなんて、私からはアクセスやコメントなど限られた要素でしか見られないので、あくまでも想像の域に入り、実際は寒々しい状況なのかもしれない。過剰に入れ込むと失望も大きいので、そこらへんは禁物です。そこのさじ加減を間違えると、勝手に期待→勝手に失望してやめる になってしまう。その辺のバランスがとるのが、 たまーに難しい。
アキバの事件では、容疑者は携帯で書き込みをずっと続けていたといいます。あの事件に対し、同情も含まれるエントリが見られるのは、「掲示板で書き込みを続けていた」行為に、バカな奴だ、誰に伝えようとしているのか?と思いつつ、少しだけ・・・・・・・・かわいそうだなぁ、と思ったからではないでしょうか。ネットにはそういうむなしさの一面は、たしかに存在し、みんなそれをどこかで、感じているから。