人間の行動は規定されている

人間って、世に起こる日々のニュースという範囲で見ると、そんなにへんな事はそうそう起きていないように思います。朝の電車でも、昼のマクドでも、帰りの通り道でも。人間は、他の生物に比べ、かなり自由度が高い存在なんじゃないかとは思うんですが。
だが内心では、そうでもない。もし、人の心の声聞こえたなら、世の中がそんな平穏であるとは思えなくなるんじゃないか。知らぬが仏ということか。
ある場面においては、人は、かつてそう規定されたように振舞わなければいけない。内心が違うことを思っていたとしても、人は大方において、規定されたように振舞う。そうすることが、人間の正しい振る舞いであり、考えない分エネルギーも使わないからだ。人間、楽したいというのは結構本能的な欲求で、有史以来人々はいかに楽するかに思いを馳せてきた。
一方で、この「楽したい思い」というのはジレンマを抱えていて、楽したいなと一番強く考え、それを見つけ出した、または作り出した人は、実は全然楽できていなくて、一番得をするのは、それを労せずして教えてもらった人々なのですね。俗に言う「誰かやれ」「お前がやれ」と言い合って誰も出てこない、あれです。好き好んで苦難の道を選ぶ人は、いないことはないが、多数派ではない。
話がそれた。人間は、その場面で「あるべき行動」というものはあって、人間が日々考えていることってだいたい、それがどのようなものかなぁと考えている時間なんじゃないか。そんなクリエイティブな考えを始終巡らしまくっている人は、そんなにいないはず。
で、あるべき行動、というものはあったとする。自分は全然それができないし、そんなことを思ってもいないわけですよ。でも、その行動が求められている。それは人間社会のルールであり、それを守らないと結局何らかの形で淘汰という形をとって、コミュニティからは排除される。コミュニティはある意味「誰か」がいっぱいいれば良くて、それが「誰か」でなくてはならないことなんて、そうそうない。だから、やれないし、思ってもいないことを、がんばって、できる限りでもやらなければならない。そういう行動が集まって、人間の世界は、日々何事もなかったかのように過ぎていく。
Twitterのタイムラインを見ていると、私なんかよりよっぽどへんなことを考えている人は多いなーとつくづく思わされたりするんですけどね。もちろん、いい意味で。