知らないものを批評するのは

知らないこと批評することは基本怖い。間違っていることを自慢そうに言っている自分というものが非常にこっけいなものだと思うからだ。ただ、一方で知らない話題をふられた場合などは、全力で脳内で類似した単語検索を行う。知らないこともまた恥ずかしいこと、いや、何かに負けたように思えるからだ。まぁ本当に知らないと、正直に知らないというが、うろ覚えくらいならまぁいいやと思って口に出してしまうことはよくある。ただし、「〜らしい」とか「〜思う」とか「あんまり知らないけど・・」などと注釈をつけて、信用度の低い情報であることを強調する。
一方で、よく知らない人にそんなことを言われたくはない、という心理を人はもっている。特に得意分野の話題を出されると、自負、プライドといったものが顔を出し、必要以上に食いついたり、こだわりを持ったりする。時には、相手に対し知識の無い、見下したような言い方になってしまうことさえある。
知らないことは知りたいという知的好奇心と、そんなのは面倒くさいという心が日夜せめぎあっている。私はかなり知りたがりな人だが、これも体調や気分により、なんでもどうでもいいやと思ってしまうこともある。
私は、情報の決め付けをかなりこわがる方で、新情報はできるだけ柔軟に受け入れたいと思っている。ちょっと視点を変えるだけで情報というものは本当に変わって見えることもあり、考え方が変わったりする。よって私は洗脳や操作に非常に弱い。素直なのは良いことなんだ・・・と思うが、社会人としてはまずいのかなぁと最近思う。
逆に、何でも決め付けようとする人が世の中にいる。確固たる価値観をもっているのだろう(実際の所は知らないが、表面的にでも)。これは一つの考え方であり、議論でも有効な手法である。一概に悪と決め付けるつもりは無い。本当世の中は広く、全てを知っている人はいない。すべからく人は偏っている。知らないことは仕方が無いし、何らかの判断を下さなければいけないときはある。だけど、偏見や雰囲気で物事を決めつけようとする最近のいくつかの出来事は非常に気に入らない。根拠もなくただ、うわさだけが広まる例がままある。
情報には、

  • ソース
  • 経緯
  • 論理
  • 多者の視点

ができれば欲しいものだ。極論や恣意的な操作、根拠ない情報は、刺激的であるが中身がない。一つの笑いやネタのコンテンツとしてとらえるまでは別にいいのだが、批評では済まず、実際の判断などシャレにならないところまで(法律や制度として決まってしまいかねないとか、実害が出るとか)広まるのは勘弁して欲しい。そういった旬の話題に対する有識者の論理的な意見も、Webで見ていきたいものだ。よく「十分に議論し尽くす」みたいな言葉を政治関連でよく見かけるが、たくさんの人がいるWebでこそ、批判に終わらず、生産的に「十分に議論」されて欲しいものだ。