ネット上の関係だと純粋に楽しめる

ネット上では、ゲームやWebサービスなどで出会う人間関係がある。社会でも、学生や会社で人間関係がある。単純に比較できるものではないが、ネット上は、異性とでもない限り、まずゲームそのものをともに楽しもうとする純粋な仲間として、楽しむためにコミュニケーションを取る。そこに深い他意はないし、あったとしても、相手のことを知らないのだから何もしようがない。そして特に気があうと、自然と仲良くなり、仲が深まり、色々なことが話し合える関係となる。それほどに深くなっても、もとがゲームの仲間としてだったため、相手が仮面をかぶって我慢して付き合っているとは思わない。実際、そういうケースは少ないだろうと思う。いやならば付き合わなければいい自由、サービスを使わない自由があるのだから。
一方、学生のクラスや社会における人間関係だと、そこに何らかの大なり小なり利害関係が生じている。この人とはあまり合わないように思えるが、後々のことを考えると仲良くなっておくといいかもしれないというような関係が。それは社会で生きていくうえで当然の思考であり、その感情自体は特に非難するものではないと思うが、それはやはり純粋な関係としては成立し得ないものであるように思う。
この問題の根の深さは、たとえそのような利害関係の思考を捨て、純粋に友人として仲良くなろうとして友達になったとしても、それは双方が完全に純粋な感情をもってこそのものであり、相手が見せている笑顔は営業用のもので、うまく、非常にうまく表面上は隠している仮面ではないかという疑念は拭い去れない、という所だ。別の所では、家の中では、あー今日も付き合いつかれたなーあいつうざかった( -д-) 、ペッとやっているのかもしれないのだ。
不信の根というものはなかなかとれないものであり、人間はまたそれほど感情というものをうまく覆い隠せる存在であるのだ。思っていることをおくびにもださないような人はゴマンといると思う。社会での顔、自宅での顔、親しくしているものといるときの顔というのは使い分けている部分があるし、うまくキャラを演じ分けなければ生きづらい世の中になっているとも思う。
ネットというのは、相手の身分も何もわからないため、まったく誰かわからない存在であったとしても、ゲームそのものをともに楽しめるパートナーとして十分に仲良くなれる。そこにリアルや金銭を絡めない限り、確かにその関係は純粋であるはずなのだ。何が純粋かというと、互いに楽しいと思ってやっている素顔の性格が底にサラけ出ているはずなのだ。時にリアルで人間不信に陥り、誰もが自分のことを陰で笑っているような被害妄想にさいなまれても、ネットの先にいる存在は、そういった建前を持たない純粋な関係であるはずなのだ。
ただ、これは実際に会うことや、利害関係が発生することで消えてしまいかねない、儚いものである。ただそういう儚い関係にも救いを求めたくなることもある。すがりたい、癒されたいという気持ちは皆一緒で、何気ない、ネットの向こうの彼の一言が、純粋な動機に基づく、やさしい真実の一言であるように見えることも確かにあるのだ。