一人用の趣味を共有するWeb

Webの良いところの一つとして、一人称でプレイする趣味の共有、広がりが生まれたことがある。
テニスや野球など、団体、対戦型のゲームは、そもそも相手や仲間が人なので、人と触れ合うことによる満足感(50)×ゲームの面白さ(50)というものがあった。それに対し一人称のゲームは、ゲームとしては非常に面白かったとしても、プレイしていない人にそのすごさを伝えづらいこともあり、自分自身の内で完結してしまう(いわゆる自己満足)ことが多かった。式であらわすなら、ゲームの面白さ(99)×俺一人(1)といった感じだろうか。
自分の趣味をわかってほしい、すごいって言われたいという気持ちは、程度の差こそあれ、万人に共通だと思う。しかしわからないもののすごさは伝えづらいし、コミュニケーションとしても成立しづらい。延々とわからないものの話をされても、自慢乙、という感じつまらないんじゃないかと思う。
そもそも趣味というのをなぜもつかというと、まず好きだっ、めちゃ楽しいという気持ちが先にあって、それが行動を起こす大半の理由ではあるが、ずっとはなれた第2位の理由として、人との話題になるから、人とつながれるから、などといった理由もあると思う。趣味そのものを楽しむというより、趣味というものを緩衝材として、人といることを楽しむというような。人間色々いて、「人」を重視する人、「モノ」を重視する人、比重の置き方は人によって微妙に違う。
従来(1990年くらいまで)はスポーツなどの団体競技が人気だった。現在ほどゲーム技術が進んでいなかった、ということももちろんあるだろうが、人とつながる満足感、ゲームを楽しむ快感を得られる場所として最適だったからだ。一人称の趣味は少数派だったし、それぞれあくまで個々で楽しみ、自己完結する性質のものだった。
だが、1995年ごろから広がってきたWebは、自己完結していた一人用の趣味に広がりを与えた。自慢する場所、話し合う場所、高めあう場所、ともに遊ぶ場所。色々な場所がWeb上にできていった。 ゲーム(99)×{俺一人(1)+Webの人々∞}となり、楽しみや満足度が上がった。
具体的には、Webによって絵やテキスト、音楽や動画作品が共有され、作者にやる気を与えた。また、オンラインゲームは、ゲームという一人称の趣味をコミュニケーション要素を加えたし、ニコニコ動画は、映像を見るということにコメントというコミュニケーション要素を付加した。一人称の趣味でありながら、周りとのつながりも楽しむことができるようになったのだ。ある意味、すばらしいことである。もちろんいい影響ばかりではないだろうが、ここでは書かない。
ちょっと、趣味について話を深堀りする。好きだという気持ちをあまりもてなかったとしても、人は趣味を持っていたりする。なぜか。一つには息抜きということがある。もう一つの理由としては、人とのつながりの価値を上位に置くならば、趣味として団体のコミュニケーション中心のもの、一人称の趣味、音楽やTV、ニュースもランキング上位のものをもつことが、人と広く交流を持てるという意味でプラスになるから、趣味を持つという人もいるのではないか。メジャーなものは、多くの人と共有できている可能性が高いので、話題のネタとなりやすいし。実際そういう話題仕入れとしてニュースを読む人もいる。
だがしかし、趣味はもともと人の好きだと思う欲求からでたものであるから、残念なことに選べなかったりする。興味ないことはなかなかできない。出会いやちょっとしたきっかけのあるなし、ということはあるけれど。萌え系の画像を見て非常に癒される人は、たとえ違う時代に生まれていたとしても、そういう思考が形を変えて趣味として具現していたんじゃないかと思う。遺伝子にプログラムされているのかな。そこらへんは環境要因もあるだろうけど。
だから、Webができたことでオタクと呼ばれる一人称の趣味を持つ人たちが台頭してきたのは非常に納得のいく話なんじゃないか。Webの人々∞が増えていったのだから。
誰も彼もが、今まで個人で完結していた趣味(日記や絵、ゲームその他)を、表現者(expressor)としてWebに公開するようになったのだ。それらのエネルギーは確かに今、Webを支えている。Webをおもしろくしている。
Webの登場は、一人称の趣味の社会的地位の飛躍的向上につながったのではないか。ゲーム全盛の今日、そのようなことを思った。