リアルは笑顔の仮面舞踏会か

社会というのははなやかで、情熱ある、いい人たちの集まりである、そう信じて疑わなかった時期がかつてあった。気を使ってくれるし、たいしたうまい反応を返せなくても笑ってくれるし、話しかけてくれるし(そうでない人もいるが今回はスルーで)。自分はとてもそういう風に振舞えないし、積みあがった恩の数々は限りないほどである。申し訳ないという気持ちと、自分もそういった好意にできるだけ応えたいと思っていた。
私は典型的な「NOと言えない日本人」で、周りの雰囲気やらに簡単にやられてしまう。そして時に強引に反発し、もうKY扱いと言うわけですね。なんというか、断り方が下手というか、優柔不断というか。面と向かって断りにくいという強迫観念が自分の中にある気がする。なんだか負い目のようなものをたくさんもってしまうがゆえなのか。
そう、私に笑顔を向けているその笑顔は、私だけの特別なものであるわけではなく、多くの人にも同じ事を行っている、一つのその人のスタイルだと気づいたとき、何だかしれないが失望した。そして落ち込んだ。少し考えてみれば当たり前の話だが、そうあってほしくないという気持ちが自分を真実から目を背けさせていた。特に「好きな人だけは付き合えなくなる」社会人ともなれば当然のこと。その当然のことに、気づいたに過ぎない。みんなはもうわかっているし。でも私は、ショックだった。子供なんです。
人とうまく交流、コミュニケーションするとき、とても快感を感じる。正直に言うと、ブログでコメントをもらうよりより直接的で、うれしいことだと思っている。ただそこにはその人のスタイルがあり、素顔はなかなか見えない。見せてくれない。
人の素顔というものは往々にしてグロテスクなもので、そんなものを見ても誰も喜ばないから、人は徐々にそれを隠すようになる。本当の感情をそのまま四六時中発散している人がもしいれば、それだけでその人は幸せだろうと思う。酒の席や一対一の会話で時折チラリと顔を見せるが、すぐ引っ込む。仮面の姿の下にある、真実の顔は見えない。見せないのが、大人であり、社会人であり、常識なのだ。もし見せたとしても、それは「見せられる程度の」本音である。
そんな風に勘ぐると、人に好意や笑顔を向けられても、その下にある素顔で彼、彼女は何を考えているのだろう、と考えてしまうときがある。「ちっうぜえ」と心で思いながらも、人は笑顔でいられる。いられるのだ。それが人の、怖さでもある。
笑顔や優しさすら、疑いだす時点で人間としてかなり最低な気もします。たぶん今だけの一時的な気持ちだろう。ただ、ネガティブな気分のとき、そういう気持ちを遠慮して吐き出せないようでは、真に自分のブログとはいえないと私は思う。今は体調が悪いこともあり思考ベクトルが↓↓に向いてますが、そういった時にアウトプットするのもまた視点が変わって面白い。後で後悔することも多いですが・・。