信じてしまいそうな話と社会への影響

基本的に情報というものは「信じる」が先に来るのか、「信じない」が先なのだろうか。私は基本的に「信じる」が先に来て、他のソースで修正、補強するといった見方が多い。
ただ、ニュースも、「信じる」が先に来やすい情報と、「信じられないな・・・」が先に来やすい情報とがあるように思う。それは今までの常識に照らし合わせ、ああ、ありそうだと大雑把にYesorNoの判定がなされ、受け入れるのである。それがあまり常識に反する内容だと、脳がその情報を受け入れることに違和感を示し、「・・?」となるのだ。
ちなみに、自分に関係のないような情報であればあるほど、そのことについて詳しい事情などもわからないので、無批判に受け入れ、つまり信じてしまう。逆に関係ある立場、興味ある話であれば、裏の背景や事情も多少の知識があるので、正しい判断を下しやすい。
ここで問題としたいのは、知らない話であるがゆえに、あまり批判なしに受け入れてしまう多くの人が存在するということである。それって怖い話で、それが事実でないかもしれないにもかかわらず、多くの、遠くにいる人たちに情報としてキャッチされてしまうわけだ。無論遠いので、彼らの認識が直接企業などに影響を与えることは少ないだろうが、それでも他者にそういったものとして、知らず知らずのうちにレッテルを張られてしまっていることは、怖いなーと思う。
ちなみにきっかけは、この記事。
「休みたいならやめればいい」急成長の日本電産社長
私はこの企業をよく知らないが、そういうニュースが書いていれば、「信じたく」なるようなベクトルが働いているように思う。何ていうのだろうか、”大”企業に使われている”小”市民の姿がイメージとして沸いてしまうからなのか。そういう形で多くの人がこの話を信じ、イメージが落ち、株価が下がって企業価値が落ちたとしたら、なんかそれは、誰かが裏で操作しているんじゃないか、情報操作じゃないのかと勘ぐりたくなる。そう、新聞の記事というものは、瞬間的な「反論」を認めない。だから、何も悪くないのにネガティブキャンペーンを張られてやられた、なんて話も出てくるのかもしれない。
まあ、実体経済に与える影響は、今はまだまだ瑣末なものかもしれませんが。ネット社会化が進めば、ひょっとしたらはてなブックマークのエントリや、コメントだけで、企業に損害を与えた、名誉毀損だ、となるような時代がくるのかもしれない。それは、社会的に認められたという意味で歓迎すべきことであるが、一方で困惑を生じるだろうな・・・などと、ありえるかもしれないネットの未来について妄想していました。