正解のない問い

傷付くことを恐れては、正解にたどり着けないと実感。
学生生活において、こと人間関係以外は、物事は正解が存在することがほとんどだった。運の要素も確率に落とし込み、合理的におしていくと、正解にたどり着ける。そんなイメージがあった。
考えを進めていくことは重要だが、迷いはできるだけなくし、効率的に選択肢を求めていくような教育が現代の日本において主流となっているのでは、との思いもあり、人生における行動でもそういったスタンスで動いていったことが多かった。
しかし、いずれの選択枝も、誰かが困り、傷つくといった選択肢は、選びにくい。すごく選びにくい。今まで勉強した覚えはない。
たぶんこれが正解なんだなと頭では分かっていても、後悔が付きまとう。合理的に正解と思えるからこそ、逆に、合理的でしか選択できないのかという自分の限界を感じ、思考の無限ループに陥る。
その際にする迷い、というのは、正解のある問題に比べて、有用なのだろうか。言葉にすると、「苦悩」といった言葉があてはまるだろう。これらを免罪符とすれば、答えは見えてくるのだろうか。
感傷的になることは一種の自己満足に過ぎない。思いは行動に変えてこそ価値が出てくるのであり、口だけではなんとでもいえる部分がある。 言葉を尽くすことも一方で大切なのかもしれないが、そこには最低限の思いやりさえこもっていればよいのであり、それ以上もったいぶるのは意味のない、自分への言い訳としているのだと思う。
最後は結局、いずれかを選択するしかない。その事実だけは変わらないが、悩むのは無駄なんだろうか、と自問自答したりする。なかなかこういうことに関しては、効率的とかそういうことを考えたくなくなるのは、人が感情をもつが故なのだろうか。いやー、こういう問題もあるのだなあ。しかもこれからそういった選択が増えてきそうで憂鬱だ。
結局、なにを拠り所にするか、優先順位をつけるかの問題になってくる。迷いはなくならないが・・。心が弱いからだろうか。感情に対して鈍感にならなければならない局面も、あるのだなあ。うーむ。