ネットは時間を吸い込む

エントリを書くきっかけ
「ネットで頭がバカになる!」 テリー伊藤の主張を「否決」  JCASTニュースより
お詫びと、ここ2週間悩んでいたことについて   Attribute=51より
外に出て活動している場合をリアル、PCの前でWebに接続して何かしている状態をネットと定義する。
ネットは(あなたがリアルですごすはずだった)時間を吸い込むのは確かだ。当たり前の話で、定義から考えても、ネットで過ごす時間が長くなればなるほど、自分のもつ時間が限られている以上、リアルで過ごす時間は少なくなる。
リアルによって培われる能力としては、やはり人とのコミュニケーション能力ということになるのだろうか。あと、「実体験」という名の経験値。リアルで過ごす時間が長いほど、これらが増えていく。
一方、ネットで培われるものは何か。実は、これはかなり幅広く、何でもアリなのである。情報やコンテンツによる知識やコンテンツの蓄積から、ゲームがうまくなる、・・・に慣れてくる、など、その人がWeb上でとる行動によって様々。それが有用かどうかはその人のみぞ知る。
一つの価値観として、社会的にいかに有用な能力を育てているか、という尺度がある。資格全盛の現代、いかに能力を誰にでも示す形で提示し、自分の価値を明示的にわかってもらうかが必要となってきている。そういった意味では、Webは新たな情報など得るものは多いが、社会的に見てそれが価値あるかと言われると、うーむ、直接はつながらないかもしれない、と思える行動をとっていることもしばしばである。愛すべきバカ、もっと評価されるべき、などという言葉は、Webならではの現象だと思う。
ネットで過ごす時間が多いほど、他人から見て失われていく能力は多い(コミュニケーション能力が落ちる)が、自分にとっては得られるものもある。また、外に出て活動すると言っても、好き嫌いや状況に応じたものがあり、その点ネットはいつでも飛び込むができると言う意味で手軽だ
また、ネットは自分にとってそれがリアルで活動するより有用な時間であったとしても、あるいはなかったとしても、それが他人に見えにくいということだ。まさに個人の満足、充実の問題となってきている。
ネットはだめだという言説も、ネットは有用であるという言説も、ネットの一部分に過ぎず、ユーザの行動によって大きく変わる。例えば私がずっと麻雀ゲームをひたすらやっていたとしたら、まあ、私が楽しいと思う感情はともかくとして、そこから得られる情報はあまりないかもしれない。一方、Webで情報収集を行い、新たな知識を摂取し続けているのだとしたら、それは情報に敏感で、知識も増えていっていることになる。ネットの価値を認めない人には、常に毎日の全ての新聞や雑誌を網羅して読みつつ、最新の本を片っ端から読んでいる人、と説明すると、おお、価値がありそうだな、とのイメージが湧くだろう。
要はWebでどう行動するかによって変わるため、ネットはだめだという言説も、ネットは情報にあふれたすばらしい世界だ、と言うのも、それぞれあたってはいるのだが、それは一面でしかない。
一ついえることは、ネットを過ごす時間が多くなればなるほど 、従来の人間に比べ、しゃべる機会や人と接する機会が減っているのだから、必然そういった能力は落ちてくると思う。要は、ネットでそれを補い得る何かを得ているか。そこが重要なのではないかと思う。
補足として、社会上重要視されないものに価値を見出し、それに没頭することは、これはもう自分が満足するかどうかの世界であり、その是非を問うことはできない。本人がそれによって満足であれば、ネットは素晴らしいモノだと言える。人間の一つの目標として、満足を得、幸福に生きる人生を望んでいるのだから。その人にとって、誰がどういおうとも、ネットは素晴らしい世界だということは確かだろう。
ネットはだめだ、という意見もあれば、いいやネットは有用だ、という主張がなされることがある。ここ10年の間に急激に台頭してきたネット世界をいきなり認めろ、と言っても摩擦の出るのは当然だ。リアルの世界で過ごすことをやめ、他人から見れば引きこもっているようにしか見えないネットに、従来のリアルでの活動以上の価値を見出している人は、今、少数なのだろう。だから少数派なのだ。人によって価値観の置き所が大きく違うので、色々な意見はあると思うが、ネットに適した(ネットに大きな価値を見出し、満足感を得る人々)人はネットで過ごすのもまた、一つの選択ではないかと思う。