嫌儲の精神

最近、嫌儲という言葉をちらほら目にする機会が多かったので、嫌儲についてちょっと考えてみようかと思う。
まず、読み方は嫌儲(けんちょ)らしい。いままで(けんもう)だと思ってた私乙w 人が儲けること行為を嫌うことを意味するようだ。
私の感覚では、これらはweb以外でも人々の間でよく暗黙の了解として持たれている感覚であるのではないかと思う。端的にいうと、金を敵視し、情や気風を重んじる感覚。江戸時代の士農工商にも見られるように、商人は卑しいものとして軽蔑され、金よりも大切なものはあるんだ、という感覚を人々は持っているようである。現代も、村上ファンドライブドア事件などを見る限りにおいて、人々が金儲けに走ることをよしとしない雰囲気が見られる。
Webではそれがさらに顕著である。無料だと大賑わいだが、有料になると途端に潮を引くようにユーザが去る。それは単に金を払いたくないということだけではなく(無論、それもあるのだが)、「金儲けをし始めやがって、許せん」という感覚も加わっているように見えるのだ。
金が絡むと、何がそんなに嫌なのか。いくつか考えられることとしては、
・金目的となると場が荒む
・商業目的となると、楽しさとは別の収益性を重視するようになってくるからダメ
・金儲けなんて初めて調子に乗りやがって、俺はこんなに苦労しているのに
・出る杭はたたきつぶす、やつが儲けている分が、回りまわって俺がワリを食うかもしれないという感覚
こんなものだろうか。確かに金が絡むことで変化するものはある。人々の見方や、場の状態は。
一方、金儲けしているいるものはすべてNGとして叩くかというと、そうでもない(すべて叩く人もいるが)。その違いは、能力があると認められてる人はあまり文句いわれず、どっちかというと急上昇、にわか成金みたいなものを激しく嫌う傾向がるように思う。
お金が欲しいという感覚は、個人差あるが誰もが胸のうちに持っているものだ。それを顕示する行為や発言を、人は嫌う。結局金目的かと。金の亡者という目で見る。どちらかというと、金を渡されても「いやいやそんなそんな・・・いいですよ・・・・・・・・・・・・いえいえいえいえ・・・・そんなそこまでのことをしてませんし・・・」と謙虚に断るのを良しとする感覚である。
これらの精神の背景には、武士は喰わねねど高楊枝に見られうような武士道精神や、「ムラ」の共同体としての互助精神、あるいはキリスト教の「隣人を助く」精神が影響しているのだろうか。とにかく、金、そして金を儲けようと態度を見せるものは嫌われている。
一方で、利根川先生のような考え方に共感する人もいるわけである。

(googleイメージ検索より抜粋。引用元 http://right0201.hp.infoseek.co.jp/tonegawa.htm
これをTVの前で誰かが言ったらフルボッコになるだろうな、という感覚は持つ。この感覚。この感覚が自分の考えの何に基づいているのかがよくわからない。ただそういう確信だけがある。
ホンネはホンネとして胸の内にしまい、あくまでも公式にはタテマエを押し通すことが良しとされる。それはそれで逆にズルイような気もするけどね・・・でもそれの方がマシという感覚を人々は持っている(と思う)。こっそり儲けるなら、良しと。
でも、みんな儲けたいとは思っているし、一つの目的としてあるわけで。それを顕示することは、どうなんでしょう、お金が絡むことでそれがインセンティブになるというプラス面もあるしなあ。
ニコニコ界隈でよく見られる言葉であるが、「もっと評価されるべき」という言葉がある。なら正当な評価を与えるべきだと思うしなぁ。正当な評価って結局やはり金で換算される部分は確実にはある。プロ野球年棒じゃないけど、金をもらって初めて正当な評価ではあると思う。ところが嫌うんだようなあ、そういう行為は。
どこかがこんがらがって矛盾しているような気がしてならない。アフィリエイトとか載せる行為や同人販売、商用化はいかんのかねえ。批判されるものなのかねえ(やりすぎがうざいというのはまぁ、邪魔だからわかるが)。世の中は本当にいろいろな人がいるから、100%のコンセンサスは得られないことは仕方ないにしても、もうちょっとそういう行為を認めてもいいんじゃないか、と、最近Webを賑わしている様々な事象を見て思いました。正解がわからん話ではある。