ニコニコ動画の時間軸の捉え方

ニコニコ動画のコミュニケーション形態について色々表現されている。
非同期チャット(実況、ライブ)、擬似同期コミュニケーションなどなど。
意味はつまり、現実の時間軸では非同期なのに動画内でコンテンツ視聴時間で同期することで同期感を得ようとするもの。同期に「見せる」、錯覚させるなどという言い方もされている。
外から客観的にサービスを見ると確かにそう言えるが、見ているユーザからすると若干感覚として違うのではないか。コンテンツ視聴時間は同期している。見ているその間に限っては、現実の時間軸というのは意味をなさなくなるのではないか。ちょっと過去ログで参照させてもらったが、コンテンツの賞味期限がない、もしくはかなり長い(コメントも、動画も両方)とすると、別にいつアクセスしようとそこに意味はなく、動画を見ている瞬間においては完全に様々なユーザと時間的に同期しているのだ。別に錯覚しているわけではなく、実際に真の意味で尺をあわせているので「同期」しているといえるんじゃないかと思う。
説明しようとしてpaintで図を描いたが、非常に残念な図になった。
要は、こっちがタイムスリップしてるんじゃないかっていう考え方。現実の時間軸にはどこにもない、固定凍結された時間軸に。その一所にみんなが集まっているイメージ。そう考えたほうがしっくりくる。別にユーザは錯覚しているわけでもなく、現実時間軸の非同期性はちゃんと認識した上で、動画内において同期的だからいいじゃん?他に重要なことはない。という話。
「共通した話題を提供することで、過去の誰かと未来の自分が、時空という壁を超えての対話が可能になる・・のか、部分的に。」(こちらも残念な図を描いたが見苦しいので却下。)
あーもう絵(?)と動画の練習がてら、動画分析講座でも作ってニコニコにアップしようかな・・・・誰も見そうにないが。俺くらいしか見ないな。

追記:19:44記事を見た。なぜ「ニコ動」は盛り上がり、「Second Life」は過疎化するのか うーむ、やはり錯覚の部分は納得がいかない。非常にもっともらしく書いてあるのでさらっと読み流しかねんが。ユーザは本当にリアルタイムだと錯覚しているのか?違うと思う。動画内の尺において同期がとれている以上、コメントの現実の時間軸は非同期であるかないかに関しては「重要でない」からではないか。
さらにtwitterはCメールに近いものだと感じる。非同期を同期にしているという論理でニコニコ動画と結びつける必要はないんじゃないかとも思う。
「まるで今、リアルタイムでコメントが投稿され、みんなで対話しながら盛り上がっているような錯覚で楽しむことができる」というのはニコニコ動画の一現象であって、それが全てではない。錯覚して楽しんでいる層もいるかもしれないが、認識して楽しんでいる層もいると思う。そもそも錯覚という言葉に著しい違和感を感じる。第一コメントは見ていない層もいるし、ニコニコ動画をコメントでまとめてしまうのは安易だと思う。濱野氏がニコニコ動画をどれくらい見ているのかが少し気になる。
一月くらい前までは濱野氏の文章を読んで納得していたが、今見ると違和感を感じる。時間軸のとらえ方の違いかもしれないが。またもう少しちゃんとした形でまとめて書くか。