欲望の需要と供給

欲望は需要があってこそ商売として成り立つ。いかに「需要」を見つけ出し的確に「供給」するかに尽きる。ただその供給の方法は、そもそもの欲望による需要というもの自体が、単一、単発なものもある一方で、最大公約数的な需要もあり、いずれも満たす供給物を提供するには商品ごとの戦略が必要になる。
そもそも欲望は科学的に体系化されているかというと、部分的な知識が寄せ集まってこそいるが、あくまで概要的でありテンプレやレシピ的なものまでには至っていないと思える。それは欲望が移ろいやすく、気持ちは変わりやすいという人間の内的な変化が要因であることもあれば、時代の雰囲気的なもの、また場所・環境によるものが一時的に作用し、期待した結果につながらないことがあげられる。
物事は仮定があり、行動→検証→結果と続くが、そもそもの仮定がしばしば人間のフィーリング的なものとなりがちだ。時は金なりという時間と予算に縛られた中、一定の時間を持って成果を出すのか、一定の時間内に結果を見せるのか、しばしばそれが逆転し、時間に追われ結果作りに陥る。特に欲望というものは、かなり頼りないものに思える。
だが、欲望による市場は今日でもさまざまな場所に確かに成立し、巨大な市場を作り出しているわけであるから、そのアプローチ方法が間違っているというよりはむしろ、細部に目を配るキャンペーンではなく巨視的に見た大きな「需要」(たとえば暑いから冷たいものを、おなかがすいたから食べ物を提供するといったような)を捕らえているから、欲望をうまく捉えた商売という風に捕らえられるだけなのかもしれない。細部による移り変わりによって結果が大きく変わるような商売は、ある意味危なくて見ていられないに違いない。
しかし一方で、ほしいときにほしいものが提供されていてほしいと思う人間の欲望には果てしなく、かゆいところにてがとどく一部の人間向けのニッチな市場を狙うのも、ことインターネットにおいては有効となっている例が多い。何せ総数が多く、時間・場所にとらわれず提供できうるからである。巨体の方向けの靴や服の提供などはそういった視点をうまく突いた一例であると思う。ニッチであっても、総数が多ければそれはすでに一定の市場規模を持ち、ビジネスとなる。
何がほしいのか、それは物欲だけでなく、整理欲、収集欲、コミュニケーション欲など、欲望にもさまざまな種類と渇望の度合いがある。その渇望を癒す水となるものがなくさまよい、その人が他の何かに妥協してしまう前に、目的とするものを的確に見つけ、それを提供することが欲望の充足へとつながる。さらに、それを価値と感じさせるかも大切だ。渇望を見つけ、認識しそこから供給まで持っていくにはさまざまな隔たりがあるにせよ、それをイメージし、その渇望を癒すために何ができるか・・・・を考えることこそ、サービスのあり方の根本である。決してそれは、押しつけであってはならない。ならないんだが、そんな理想論を唱えてもね・・・とため息がでつつ、今日も自分の満たされない欲求を誰かが満たしてくれないかな、今ならこういったサービスに3000円は払うんだけどな・・・と一人頭の中で妄想し、一人心地ながら家に帰る。