知ることに時間を費やす

知ることが重要なことはこの情報社会の中では当然だ、と一部の人々は思っている。
情報を知る目的として、より情報が充実することでより合理的な行動がとれるようになる。端的な例では、昔は家電製品は地元の家電ショップで買うしかなかったが、今では価格比較サイトを利用することでより安く購入することができる。それは情報を得るためにはたいたコストと比較してその差分がプラスであれば、情報はそれだけの価値を持っていることになる。
しかし、なにを持って情報を得たことになるのかは、あいまいな部分が多い。
百科事典を持ち歩いてれば、いつでも何かわからない単語にであったり聞かれたとき、それを知ることはできるが、それは知ったとは普通言わないだろう。通常、一度でも視覚や聴覚など、五感をを通さないと「知った」とは言えないように思う。
ただ、情報を知るといってもいくつかの段階があり、そこがうまく使い分けられない。私のイメージとしてはそこには4段階くらいあり、

  • Lv1 単語として知っている
  • Lv2 その情報について思考をめぐらし、他の物事と関連付けされた流れの一部として理解している
  • Lv3 人にその情報について説明できる
  • Lv4 使いこなせる、情報を活用できる

などがある。日々、インターネットでザクザク情報を得るのはまずLv1段階である。そのうち9割以上はLv2に飛躍することはない。
ちなみにLv1情報は、一定期間内に活用しないとLv0.5〜0まで落ちる。どういう状態かというと、人に言われて思い出す、なんか前に聞いたことあるがいろいろな情報とごっちゃになって思い出せない、そんな状態である。それが役立つのは、他愛ない会話のネタや、QMAなどで2択で迷ったときに正しい方を選ぶことができる程度の能力であるにすぎない。
知ることについて貪欲であることは、ネットの情報を漁り続けることであるのか。それは日常のふるまいでしかない。知るというからには最低、その情報について思考をめぐらすことまで行き着かねばならないだろうと思う。情報を見て楽しむのは、漫画を見ているあの感覚にすごく類似する。
目的のないところに行動はなく、情報を収集することに目的がないのであれば常に誰かと話している方が、有益だと思う。
でも毎日ネットはしているわけで、それはなぜかというとなんとなくしている部分もあるわけで、楽しみという欲望のためでもあり、知識を得たいという知識欲、好奇心でもあり、暇な時間を埋めるスパイスでもある。ただ、そういった欲望の充足は行き着くところ、人間が息を吸い吐く行動と大したかわりはない以上、情報を収集する行為に対価としての意味はあまりない。
とまず自分の日常行動を全力で否定してみる。でも欲望やそうしたいという心理というものは一方であるわけで。なぜそういう行動をとるのか、そういう心理に陥り、行動としてあらわれるのか。
続く。