常識を破るエネルギー

何か、新しいことをしようとするとき、障壁となるのが「常識」という価値観だ。
常識。慣行。今までの生活で当たり前となっていた行動や感覚、これを変えることは大きなエネルギー、誘因が必要となる。
何かしようとするとき、常に問題となってくるのが、
(行動の結果がもたらすプラス要因)−(その行動をすることのコスト)=プラス
でなければならない。
旧来とはまったく異なった新しいサービスやライフスタイルを提案するとき、たいていの人はユーザにそのメリットの大きさを強調する。以前のものと、新しいものが同等の立場だとしたら、ちょっと上回っているだけで新しいものが受け入れられそうだが、実際の所、ユーザに切り替えコストを与えるため、その差は少しではなく、かなりの違いがなければならない。人は余計な手間、余計なことを考えさせられることを基本、あまり歓迎しない。よっぽど興味あることならともかく、よく知らないことについて、延々と説明されても、「はぁ」「ふーん」くらいの生返事しかできない。
サービスや商品として非常に売りやすいのが、従来の価値観にのっとった類似の商品や、サービスだ。従来の価値観+α部分を強調すればいいのだから、その商品には確実にメリットがあるように感じる。実際、世の中に出回っているものの大半はこの類で、いわゆる改良というやつである。
新たな価値観を提案し、それを受け入れてもらうことは非常に困難だ。まず、商品やサービスの内容が大幅に変わっているため、メリットとデメリットを定量的に比べにくい。すると、たとえ新しいサービスが良さそうに思えたとしても、そこに自分を納得させるだけの明確なメリットを説明できなければ、切り替えコスト(初期費用+手続き+新しい知識を覚える、など)、思考(サービス比較検討)、時間、を使って新しいサービスに乗り換えようとは思わない。(一部の、新しいもの好きな人はともかく、大半の人は。)
常識は、とても堅牢なものでもある。一方で柔軟かつ機敏な側面もある。
これまで生き続け、自分の意識を持っていた二十数年間の中で、常識やライフスタイルは大きく変わった。世界がこれほど変わっていくとは。変わる以前には想像もできなかった世界がある。常識は、日々のニュースやコミュニケーションの中で修正、改良されていく。その力はやがて、多くの人々に波及していく。
常識の存在は、人を安心させる。勝手のわかった遊び場で遊ぶようなものだからだ。
一方で人は、新しいもの、未知なるものを恐れる。従来の価値観の延長として捉えようとし、しばしばそれを拒否する。期待と不安が入り混じった、複雑な感情を覚える。YESともNOと判断がつかない、わからないもの。何事も一つの結論をつけたがる人々は、しばしばレッテルをはることによって白黒を決めてしまうことも多い。そして思考停止する。そのことについて深く考えることはしない。だってそれは、そんなに考えるほど興味のあるもの、コストをかけるに値しない出来事であるからだ。
要は何が言いたいかっていうと、常識を破り、新しいサービスを提案し、それを普及させていくには、大きなエネルギーと時間がかかるということだ。自分がたとえ、新しいサービスの素晴らしさを肌で理解していたとしても、他の多くの人は、それを理解してはくれない。自分にとって、理解するに値しないだろうな、という価値観をもち、レッテルをはっているからなんだろう。
世界は一応、複雑な事象が連続的に動いている。良いものが理解されない、広まらないというもどかしさは各人の心のうちにも常にあるんじゃないかと思う。その次、それをどうするか。現状のまま諦めるか。変えようとするか、自分がその常識、従来の慣行を破るためのエネルギー源となるかである。
その情熱エネルギーは、時に多くの人を動かし、多くの人々の行動、考え方を変え得るだろう。それが自分が今、この世界に存在することのオリジナリティであり、存在価値だと思うのである。