Webの壁を超えて

もし、携帯サイトがPCから自在に見られるようなソフトができ、誰かがフリーで公開したなら、携帯サイトはまたたくまに変質していくだろう。その善悪はともかく、一つのWebとしてグローバル化していくわけだ。ひょっとすると、そのソフトの公開停止を求めた要求が出されることもあるだろう。
現在それが技術的にできるかどうかはここではおいて置くが、とにかく変わる。今までできなかったことが可能になるようなプラス面もあれば、今までのような楽園が失われるようなマイナスの影響を及ぼすかもしれない。最近取りざたされているフィルタリングによっても、コミュニティはすでに大きく変わっていってるのかもしれない。
イメージとして、川は、せき止めなければならない所もあれば、互いの川をつなげることによって互いの利得が高まる場合がある。そこを見極め、予想するのがいわゆる市場などのリサーチャーなのかなと思ったりする。Webのコミュニティも、隔離されている所もあれば、新たにつながるような所もある。コミュニティが狭いと、濃くて個性的な価値あるものが生まれ出てきたりするので、そういう存在は残っていって欲しいなと思う一方、一度有名になってしまったら、人の流入はとめられない。コミュニティは、かつてのようななごやかなコミュニティではいられなくなったのだ。
今、Webはそういう力がランダムに、そして無節操に働いている。誰かの気まぐれによって、いつどこで何が有名になるかがわからないような世界だ。それはすげえええええええとも思うし、こえええええええええとも思う。昔、偶然ニコニュースに紹介されたときは、アクセスが100倍くらいに増えてビビったことがあった。今、思えばなつかしい。
壁を取り去るのは自分によってではなく、えてしてアクセスを持つ「誰か」によってであることが多い。まあ要は、多くのアクセスを持つ大手の方々である。Webはアクセスがモノを言うのは確かで、アクセスを持つ人の行動は、それだけ影響力が大きい。巨象がノシノシ鼻を振り回して動くようなものだ。
壁、というのはコミュニティ間であったり、サイト間であったり、個人サイトとWebの読者との間だったりする。まあその壁には時限があるケースもあり、一、二日もすればその壁は再びあらわれる一過性なこともあれば、そのまま交流が増え続ける永続性のものであったりもする。壁が取り去られた瞬間、壁の向こうにはそんな世界があったのかと驚く。そんな人がいて、コンテンツがあったのかと知る。「新しさを読者に伝えている」という意味で、それは上質の情報でもある。
ただ、壁が取り去られる副作用の一つが炎上だ。距離が近づくことは人同士でもなんでも、いいことばかりではない。もし言語や距離の壁を越え、世界が完全にフラット化したならば、それはそれで怖い。かつて良かった個性的なものが失われ、無機質な、均質な世界がひたすらできるように思うから。
Webの壁を越えていき、どこまでもWebの自分の世界が広がっていくのは楽しそうだが・・・・探検し尽くしたら寂しそうでもある。まあ、Webは広大だからそんなことはまずないだろうな。毎日が発見の連続で、いつになったら終わるんだ、と膨大なRSS未読数を見てため息が出たりもする。頭にハードディスクを作ってそこにまとめてデータをコピーしたいような気分である。