Web上のつながりを断つこと

インターネットは、人やモノ、情報やカネなど様々なものをつなげてきた。つなげることに疑問はなく、人やものがより密接に繋がることで、今まで出会わなかったものや人達が出会い、より緊密な社会ができあがる。それはとてもすばらしいものだと思った。
ただ、つなげるにしても「つなげ方」はWebサービス集客の明暗を大きく分けたように思う。どういうふうにつながりをうまく演出するか。ただ電話のように言葉をただつなげれば人はみなしゃべりだすと言うわけではなく(無論しゃべる人もいる)、シャイな人、テキスト以外のつながりを求める人、報酬を求める人、癒しを求める人、反応を求める人と、世の中色々な人がいるので、いかに人が「使いたい」と思うか。それは必要性、楽しみ、依存によるものかもしれないが、とにかく何かしら人をひきつけるサービスが、淘汰の末に残っていったように思う。
これらのサービスが提供され、使われると言うことの根本には、つながることはいいことだ、という前提がある。もちろんビジネスにおいて効率性がアップすると言う意味においてWebが確かに有用なのは間違いないが、人生においてWebという「つながり」があることはいいことなのかどうか、ということを考えてみる。
Webというつながりの有無は大きく分けて二つの部分を変えると思う。一つは、つながるかどうかで時間が消費されること、もう一つはつながらないことで生じる負の感情である。
Webがないと、実に時間があまる。特に夜。Web上につながりがあると、時間があるときは非常に充実した時間をすごすことができたが、逆に、やることをどんどんWeb上で見つけてしまうがため、しばしば生活リズムが崩れてしまったりする。それがなくなると、意外にやることがない。何もやらないのも苦痛なので、また何かしらさがすのだが、あんまりなく、あまりに暇で勉強すらしかねないほどだった。環境とは恐ろしいものである。
もう一つ、これは自分の感覚としてあるものだが、私の場合、つながっていないことで負の感情が生じることが多い。これはWebに限らず、人生の様々な局面において生じているものだが。一例をだすと、横でクラスメイトたちが談笑していて、自分が一人でいると、何かしらさびしい気持ちや負の感情を・・・・もたないだろうか?人間が感情をもっている証明でもある。感情を持っていなければ、そんなこと考えるはずも無いのに。
そこで生じた負の感情というものは、言葉に直すと孤独や、嫉妬、報復などといった種類のもので、とてもいい感情には思えないかもしれないが、これらの感情は時折ものすごいパワーを引き出すものだと私は思っている。素晴らしい作品は健全な精神から宿ることもあるが、狂気や嫉妬心から生まれている作品もまた多いように思う。なんだろうか、そのような感情を表現するとすれば、寂しさと、怒りと、やるせなさと、嫉妬心が混じった、胸から抑えがたい激烈な感情、とでも表現すればいいのだろうか。そのような感情が、人と「つながらない」ことから出てくるように思う。
たいていはこのような感情を持ったってぶつける場所も無く、シュワシュワと時間と共に消えていって何も起こらないのだが、たまに、普通に全力を出していると思う時よりもすごいことが自分でできたりする。決して不要な悪いものと断じるものでもないのではないか、と思っている。
要は、つながってしまえば、ある種のハングリー精神というか、便利であるが故の堕落、と言うものが起こってしまい、人個人としての突き抜けたようなパワーがでてこないのではないか、と思うのである。往々にしてそれは独りよがりにもなるが、じゃあ人と繋がっていればいいのか、ということには一考の余地もあると思う。人と繋がることは楽しいが、人と繋がるということはあくまで一つの手段であり、人生の目標ではないから。
様々なツールを使い、つながりがより濃くなっていく時代である。つながりで安心や満足を求めるのもいいが、あえてつながりを断つことで、余ってくる時間や、負の精神などをもつのもいいんじゃないかと思う。人生を終える時、人は一人なのだし。
いかん、暗い話になってしまった。何かしら、つながっていることが無条件に素晴らしいことのようにどこでも語られているので、少し違う視点で見たかったのです。