嫌儲とブログの中立性を考える

池田氏が404Blog Not Foundのdankogai氏のRSSを削除したという話を読み、これも一種の嫌儲か?と思った。いや、少し違うようだ。そこから話を展開させてみる。前エントリ嫌儲の精神において抜けている視点があったので、補足の意味も含めて。
池田氏週刊ダイヤモンドをとりあげたdankogai氏の記事広告と断じている。その背景にはdankogai氏と週刊ダイヤモンドにおいて金銭のやり取りがあるからだろう。dankogai氏は「中立性」を保って書くとしながらも、池田氏はそれを認めない方針だ。
広告と表現の狭間は何か。アフィリエイトブログと表現のブログの狭間の、どこに臨界、線引きがあるか。広告の数、書いている内容などが判断材料となるだろう。広告の多さとアクセス数はトレードオフの関係にあるとして、広告数×アクセス数(もしくは購買者数)が最大になる時が利益最大化となる(同時に、本を買ってくれる優良ユーザの囲い込みも戦略上重要となるだろう(優良ユーザの差別化))。
ブログはユーザの裁量が広いため、垣根がはっきりしない。dankogai氏が宣伝を意図して書いたものか、ただ自分がその本を紹介したかったから書いたのか、本音を余すことなく伝えてくれればわかることだが、人の脳内からその真意を読み取ることはできない(ブラックボックスの部分が多い)ので、本当の所は本人しかわからない。一つ言えることは、dankogai氏がどう主張したとしても(これはただ私が書きたかったから書いたのだ、断じて献本やダイヤモンド社の契約にレビューの内容は影響されていないという意見を仮に言ったとして)、それをどう受け取るかは読者の自由である。Webは受信者優位なのだから(関連:Webにおけるタブーと受信者優位)。信じる人は今後も見に来るだろうし、信じない人は見に来ない。たとえ信じていなくても、404 Blog Not Foundの影響力の大きさが故に、見に来る人もいるかもしれない。
人が行動する理由は様々なものがあるが、暗示的、明示的なインセンティブによって人は影響を受けることは確かだ。現在、dankogai氏が売り上げを上げようとしてバイアスがかかった文章を書いているかも知れない、ということは暗黙の了解として受け入れた上で(そのバイアスがどれほどのものかは議論されるべきだろうが、さすがにゼロではないだろう)、読者はレビューを読んでいるわけだ(たぶん)。
Webにおけるトラフィックが金になるのは周知の事実である(関連:Webのビジネスモデル)。dankogai氏は本の売り上げなどを公表しているように、その商業主義的な部分を否定せず、その恩恵をしっかり利用されているだけである。池田氏はそれを「Webにおける商業主義の拡大」として批判している。
ブログは何をするためにあるか。私は、コメント欄が発展したもの、と思っている。コメント欄はいわばアウェイで議論しているようで、やりづらい。(そもそも池田氏の所に書き込むためのgooIDももってないし)たとえば、誰かのブログを呼んで反論したくなった時に、自分のブログでリンクをはって反論する。書く動機としては、ブログを読む、というきっかけから自分が表現したくなった意見や主張が心の中に生まれ、それを書き込む場所だと思っている。
書いていく中で、考えを整理する。その意見が多くの人に見てもらえ、共感や同意を得られたならば、純粋にうれしいとは思うだろう。それが一つの心理的報酬となるわけである。
バイアスは心理によっても生まれる、インセンティブという名の金によっても生まれる。実際ブログで自分は公平に書いている、何でもかけるかというとそんなことはない(関連:Webにおけるタブー)。匿名であるからこそかけることもある。社会的存在が見えないことで「立場上いえないこと」の枠が取り去られるわけだ。(関連:Web実名制
あらゆることにあてはまるが、それは中立なのか?という視点は、物事を見る上で重要だ。朝日新聞にしろ、2chにしろ、ブログなどの文章をはじめ、MIAUの主張やJASRACの主張、孫さんの主張。そこには立場があり、バイアスが必ずある。ただ、事実を知るためには、ニュースは一次ソースが望ましい。二次以降だと、わかりやすいかもしれないが、そこにバイアスがあるから。(一次の時点でバイアスがかかっているときもあるが、少なくとも最小バイアスではある)
バイアスにかかりたがる人たちの存在、バイアスをかけようとするコメント(2chでよく見かけるが)はゴマンと存在する。レッテルや決め付け、恣意的な情報がWebを渦巻いている。それを緩和するためには、アンテナを広くするか、一次ソースをあたる方がいいとは思う。
Webは便利なツールであるが、決してあなたの味方ではない。何が正しいかを実感するのはやはり経験、体験という時間が必要であり、皮相的な情報を仕入れてわかった風になっていることはよくWebユーザが陥るパターンでもある。
ちなみに、中立でない人に限って、私は中立ですと強く主張する。不利な事実が出ても、あれやこれやと容疑を否認し続ける容疑者のように。
そういった考え方を突き詰め、中立的なソースは何か・・・と考えると、嫌儲に行き着く(実際の所、人を騙して面白がるインセンティブや、なぜそもそもその記事が書かれたのか、などと考えると決して中立ではないのだが)。Webも表面的には見えないだけで、裏では実社会と同じようにしっかり金が動いていることを忘れてはならない。Web2.0などという言葉がもてはやされているが、言葉から窺える建設的なイメージを利用した企業の打算や利得勘定が裏に存在するのと同じように。
だからといって、およそ信じるにたるものは何もない、という悲観論や諦めに結びつける気はない。様々な価値観や情報を柔軟に受け入れ、多くの情報を通じて学び強くなっていくやわらか脳が、これからWebと上手に付き合っていく上で、必要なものではないかと思う。