スカイプ向いてねええええ

いやー、スカイプは人を選ぶという話は聞くが、私はちょっときついなと実感。なにがきついかって、話にうまくのれない。
それは私のコミュニケーション能力の不足という悲しい現実を突きつけられるのもあるが、それとは別に、積極的にしゃべらない。話が入っていける話題になるまでずっと聞いている状態。多分これじゃあダメなのだろう。というか、ずっと黙ってるねーといわれて悲しかったw
Twitterのゆるいつながり、ああいうほうが向いているな。私には。なんだろう、音声がつながってしまうと、自分の空間というものが浸食されてる感覚を受ける。なんかリラックスできない。しんどい感じがする。話を聞いている分には楽しいのだが。
一方、自分から話をよくする人には向いているのだろう。どんどん話を振り、さらに音声なのでその話が場において支配的になる。話をする能力というものが存分に生かされる場なわけだ。また、話をすることでストレスを解消するというメリットもある。
一方、話を聞く主体の人はあんんまりつながっているというメリットが少ないのかもしれない。だってしゃべらないのだから。しかも話を振られていないかを聞いておく必要がある。あいづちだってたまにはうたなきゃいけない。でないと、変な空気になってしまう。
Webは文字ベースまでのつながりであることから、いろいろな情報が遮断されているが、少なくとも自分のペースで物事が進められた。たとえブログが炎上しようとも、究極、見なければいいのだから。見る、見ないという選択の自由がある。コメントを書くにしても、いつ行動してもいい自由がある。
音声やWebカメラによる映像配信までいくと、そうはいかない。自分が一方的に見ている存在から「見られている存在」の要素も持つようになり、自分の行動というものに対し気を使わなければならなくなってしまう。
Webは受信者優位のコミュニケーション形態である、という話がある。しかしそれはあくまで文字ベースまでで、もしこれから先映像や音声でリアルタイムにやりとりする形態が浸透したら、またWebも変わってくるだろう。
もっとも、多くのユーザがそういった世界を望んでいないから、今日までそういったツールが、技術的には可能にもかかわらず、普及しきっていないのかもしれない。Web上の別の自分を演じる、ということも難しくなるし。
2007年のヒットサービスとしてもあげられるニコニコ動画Twitterだが、これらが流行ったのは、コミュニケーションはしたいが、気を使わず自分のペースで、という一見相矛盾した多くのユーザのニーズを、ある程度満たし得たサービスであったからなのかもしれない。