ニコニコ動画のコメントと盛り上がり

ふと、職人や弾幕というのは動画を本当に盛り上げているといえるのだろうか?と思った。
今までそれは前提のような形で話を進めていたが、ふとそれに疑問をもった。弾幕やコメントアート=動画を盛り上げているのか?と。屁理屈に聞こえるかもしれないが、意外とそこら辺について書かれたエントリはなかった。それは当然だと思っているからだろう。私もそれは当然なものと思っていたが、人によってはそれを当然だと思わない人もいるし、議論の余地が残るなとは思った。
弾幕コメント群を見て「盛り上がってるな」という感情を抱ける人は非表示にはしないだろう。でも、実際はコメントを見て色々なことを人それぞれ思っているのだ。その認識の個人差はこの前のアンケートでいやというほどわかった。とすれば、弾幕やコメントアートも必ずしも盛り上げているものとイコールで結ぶことはできないだろう。
何をもって盛り上げていると考えているのかを定義してみる。
ニコニコ動画はコメントの多さというものが盛り上がりの尺度と考えているところがある。コメントがある=盛り上がっている コメントがあまりない=盛り上がっていないという風に見ている。
本当に、コメントが多いということは=盛り上がっていると言えるか?
それについて意見を言うとき、連想するのはまずあれだ。ライブ会場で沢山の歓声が飛ぶ様子(これは盛り上がっていといえるだろう)。あれとニコニコ動画の多くのコメントは連想を呼ぶ。そこからコメントの多さ=盛り上がっていると発想するのだろう。
しかしニコニコ動画のコメントと歓声は似てて非なるものである。
ここで2chを考える。2chの場合、盛り上がっているとは、レスが多くつき勢いがあるスレッドだろう。多くの人が見ているだけでは盛り上がってるとは言えず、レスがついて初めて盛り上がっているといえてくる。まぁ、多くの人が見ている=盛り上がっているは、決してイコールではないが強い関連があるとは思うが。
そもそも盛り上がりとは何か。もり‐あがり【盛上り・盛り上り・盛上がり・盛り上がり】
1 盛りあがること。盛りあがった部分。2 気持ちや勢いが高まること
気持ちや勢いが高めているのは何か。それがレスやコメントなのである。あくまで一部の人にとってそう思うだけかもしれないが。多くの人がだまって見ているだけでは、何か明示的でないのである。
ニコニコ動画はコメントがでることでその何かが明示的になった。そのことによって一部のユーザは「この動画は盛り上がっているな」と感じるようになった。
コメントというのは、とどのつまりは人の意見や主張である。コメントがあってはじめて、無機的な数字の増加から有機的な感情の発露だと明示的に見えてくる。ぎゃーぎゃーと言いたいことを思い思いに行っていたとしても、それは盛り上がっているのである。人は気持ちが高まると、多弁になり、声が大きくなり、思ったことを言えるようになるような気がする。ここは私の個人的な考えだが。つまり、コメントがたくさん流れて弾幕やコメンアートが流れている状態というのは、多くの気分が高まって多弁になった人がいる。その存在をコメントを通じて垣間見ることができる。決して声は聞こえないが、そのコメント群を見て、最終的に人は「想像」するのだ。この映像はみんなが高揚して、盛り上がっている状態であると。もし一緒の空間で見ているならば、ぎゃーぎゃーいろいろ言いあいながら楽しんでいるんじゃないかと。そう「想像」するから、コメントを見た人の一部は多くのコメントをみて「盛り上がっている」と思うのだろう。
私が思うニコニコ動画のコメントの「錯覚」はこの部分だと思うのである。リアルタイムか非同期かによる錯覚だとは思わない。これはニコニコ動画にかぎらずWeb全体に当てはまる話ではある。特にコミュニティ系のサイトにあてはまる。
サイトが「盛り上がっているかのように見せる。」これは実はWebの至上命題である。これをいかにうまく見せるかがシステムやアーキテクチャの腕の見せ所である。ニコニコはその点で成功したのだろう。コメント付加サービスは他にも波及してきているようだし。
これからはニコニコ動画形態のコメントの見せ方がWebの一つの手法として流行してくるかもしれない。いかにサイトを「盛り上がっているかのように」見せるために。