LDRピン(6/6)

人生は一度だが、たくさんあるかのような幻想を感じる。

LDRピン(5/24)

ピンをクリップに取り込む機能、出ないかなあ。iphoneだとピンが便利すぎる。

幸福学と人間

最近、幸福学による指標を政策の是非の指標として取り入れようとする動きが一部においてある。背景には、GDPがあがっても我々はそれに伴い幸せになってきていると思えない、むしろ閉塞感がある。客観統計的な数値だけでなく、人々が感じる主観的な数値も必要なのではないかという発想から、純国民福祉(NNW)は生まれた。
海外の研究においても、たとえば就業率と幸福度は正の相関をとるなどのデータが確かめられている。働けた方が、総合的に幸福だと感じるからだ。
幸せは〜歩いてこない〜 だ〜から歩いていくんだね〜♪
幸せを突き詰めて考えると、それは一人ひとりが内的に感じる自分の立ち位置、主観的感覚に大部分が依存する。俺は、不幸だ・・・と思う人の思考をとめることはできないし、ポジティブ思考だとなんでもプラス、幸福に考えている人もいる。むしろ心配なのは、現在のマス・コミニケーションにおいてしばしば世論を誘導させるかのような報道を行うことで、実際の幸福度というものを広く国民に正しい数値を知らせることができるのだろうか、という部分が不安だ。主観的である以上、不幸な事例を取り出す→(論理の飛躍)→大部分が不幸だ→「だからこう変えなければならない!それはNNWもあがるから政府としてもやるべきだ!」といった偏向的な報道が
なされないとも限らない。
ベンサムは最大人間の最大幸福、功利主義をあるべき社会の形として説いた。多くの人々がより幸福であること、そういった社会作りを目指していくべきだという指標は私も賛成である。ただ、その仕組みとしてどのような運用を行っていくかが極めて疑問である。特に大きな疑問が次の2点、

・幸福、幸せを感じる感情の動きを人々からどうやって取り出すのか

・幸福、幸せとは何をもって定義するのか

一点目は、現在の技術ではアンケート方式しかなさそう。α波の分泌量によって人が幸福を感じている期間がわかる・・・とかいうのであれば、そこに偏見や虚偽が入る余地が少なくなるので、そのほうがいいのだが・・・母体を大きくすることである程度平均化されるだろう。アンケート項目も多岐にわたりそうだが。そもそも、何を持って幸せとするかが人によって価値観が違うし。

二点目は、先ほどの幸せの指標をどう捉えるかという問題もあるが、たぶん一般的にこれは回答なしだろう。仕事があり、衣食住が足りて、コミュニケーションができる環境があって・・・という形にもっていくのが、NNWが上がりそうな気はするが。難しいね。そもそも政策とNNWをどう結びつけていくかも疑問だし。直接税がいいのか、間接税がいいのかとか言う話なんかとは幸福度と少し結びつく気はしますが・・・。外国人参政権とかはわからんなあ。需要と供給などを調べるのかな。

とてもテーマが大きすぎて語りきれるものではないので、また続きは次回に。まあ、これはまず自分自身がどういったものを幸せと思うのか、どうした方より良いのかという価値観にも結びつく話で・・・確たる正解は自分でもなかなか導き出せないです。所詮相対的な話に過ぎないのかな。でも、幸せにはなりたいですねえ。

LDRピン(4/29)

あいまいさは停滞を生む。

LDRピン(4/20)

LDRピン(3/30)

移り変わる思考と欲求

人間の思考は、移ろいやすいものである。欲求が強ければ強いほど、その欲求の充足に意識が充足するが、それを満たすと第2次候補、第3次候補軍と欲求の矛先は向いてゆく。そして行動へと結びつける縛りはより弱くなっていく。
例を挙げてみる。
のどが渇いた→お茶を飲む。 腹減った→何か食べる 筋肉を伸ばしたい→伸ばす 本を読みたい→読む 寒い→あったまる 遊びたい→遊ぶ トイレ→行く 目が痛い→またたきする 眠い→寝る、などなど。マズローの5段階欲求説で言えば、生理的欲求に位置する。
続いて、思索したい、コミュニケーションをとりたい、何か作りたい、心配していたことが頭をよぎるなどの症状が起きる。こちらは直接的に解決できないこともあり、しばしば思考ループに陥る。この段階で思考ループに陥っている間に、また生理的欲求が顔を出し、行動も反復する。
思えば、人間の行動において1日の実に多くが生理的欲求によって私用されている。生理的欲求は正常な思考と健康を保つために充足すべきもので、これなしに人間として「自然」に行動できない。欠乏欲求を抱えながらの別行動となる。それはパフォーマンス的には他のタスクにCPUの一部が絶えず使用されているようなもので、最適なパフォーマンスは出しづらい状況にある。
話を戻す。思索、コミュニケーションといった行動は安全欲求、そして承認欲求である。wikiによると、この安全欲求を満たすために一生涯を費やす人が、世界にはたくさんいるとのこと。安全であり、生き続ける。生きていることに感謝し、暮らす。がんばらない生き方、とかいうと異論も聞こえてきそうだが、スローライフとしてはそれ以上のものはない。それはもはや問題というよりも、価値観である。
続いて所属と愛の欲求。そして承認欲求。インターネットで活動する誰かは、これに欠乏している人が多い傾向にあるような気がする。ニートが直面する問題でもある。問題はループするし、得がたいものである。補完し合える誰かに出会えることは、それはとても幸せなのだと思う。
最後に、自己実現の欲求がある。いわゆる、「行動する」とはまさにこの行為で、自己を活用し目標を具現化したいと思う欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるという。山で言うと頂点か。この頂までたどり着いてはじめて、人間としてWillを持っていると言える、とは言いすぎか。
日々、朝おきて夜寝るまで、この欲求のはざまを一日中、脳内で動き回っている。欲求が達成されられないと、イライラする。悲しいし、憂鬱になる。そういった気持ちを行動を達せずに別のことで発散させようというのが、いわゆる気を紛らわせるというものである。私は、容易に手に入る中で、自分が一番食べたい(または飲みたい)といった欲求や、一番聴きたい音楽を聴くことで欠乏して補完されない欲求を発散させている。発散させたものはどこへ行くのだろう・・・これは消えずに、ループしているように思う。イメージとしては、また欲求や思考の順番の最後列に並びなおしてくれたような感じ。
人間は存在しているだけで、常に体力視力といった基本的なステータスをはじめ、脳その他の生命活動を絶えず行っている。欲求はリアルタイムで動的に変化し、それにより人の内的なものが移り変わり、それにより思考や欲求も移り変わっていく。強い決意や信念で、そういったものを制限することや、あえて忘れる、行動を抑制するなど、人間は有意識的にまたは無意識的によりよい行動をとるためのルールを自分の中にもっていることが多い。自分として自己実現を最大化させるための最適なルールは何か。それは暗示や信念、宗教や啓発本でも何でもいいが、そういった最善の「ルール」を日々試行錯誤しながらみな、探している。青い鳥のように、なかなか見つからないものではあるが。