移り変わる思考と欲求

人間の思考は、移ろいやすいものである。欲求が強ければ強いほど、その欲求の充足に意識が充足するが、それを満たすと第2次候補、第3次候補軍と欲求の矛先は向いてゆく。そして行動へと結びつける縛りはより弱くなっていく。
例を挙げてみる。
のどが渇いた→お茶を飲む。 腹減った→何か食べる 筋肉を伸ばしたい→伸ばす 本を読みたい→読む 寒い→あったまる 遊びたい→遊ぶ トイレ→行く 目が痛い→またたきする 眠い→寝る、などなど。マズローの5段階欲求説で言えば、生理的欲求に位置する。
続いて、思索したい、コミュニケーションをとりたい、何か作りたい、心配していたことが頭をよぎるなどの症状が起きる。こちらは直接的に解決できないこともあり、しばしば思考ループに陥る。この段階で思考ループに陥っている間に、また生理的欲求が顔を出し、行動も反復する。
思えば、人間の行動において1日の実に多くが生理的欲求によって私用されている。生理的欲求は正常な思考と健康を保つために充足すべきもので、これなしに人間として「自然」に行動できない。欠乏欲求を抱えながらの別行動となる。それはパフォーマンス的には他のタスクにCPUの一部が絶えず使用されているようなもので、最適なパフォーマンスは出しづらい状況にある。
話を戻す。思索、コミュニケーションといった行動は安全欲求、そして承認欲求である。wikiによると、この安全欲求を満たすために一生涯を費やす人が、世界にはたくさんいるとのこと。安全であり、生き続ける。生きていることに感謝し、暮らす。がんばらない生き方、とかいうと異論も聞こえてきそうだが、スローライフとしてはそれ以上のものはない。それはもはや問題というよりも、価値観である。
続いて所属と愛の欲求。そして承認欲求。インターネットで活動する誰かは、これに欠乏している人が多い傾向にあるような気がする。ニートが直面する問題でもある。問題はループするし、得がたいものである。補完し合える誰かに出会えることは、それはとても幸せなのだと思う。
最後に、自己実現の欲求がある。いわゆる、「行動する」とはまさにこの行為で、自己を活用し目標を具現化したいと思う欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるという。山で言うと頂点か。この頂までたどり着いてはじめて、人間としてWillを持っていると言える、とは言いすぎか。
日々、朝おきて夜寝るまで、この欲求のはざまを一日中、脳内で動き回っている。欲求が達成されられないと、イライラする。悲しいし、憂鬱になる。そういった気持ちを行動を達せずに別のことで発散させようというのが、いわゆる気を紛らわせるというものである。私は、容易に手に入る中で、自分が一番食べたい(または飲みたい)といった欲求や、一番聴きたい音楽を聴くことで欠乏して補完されない欲求を発散させている。発散させたものはどこへ行くのだろう・・・これは消えずに、ループしているように思う。イメージとしては、また欲求や思考の順番の最後列に並びなおしてくれたような感じ。
人間は存在しているだけで、常に体力視力といった基本的なステータスをはじめ、脳その他の生命活動を絶えず行っている。欲求はリアルタイムで動的に変化し、それにより人の内的なものが移り変わり、それにより思考や欲求も移り変わっていく。強い決意や信念で、そういったものを制限することや、あえて忘れる、行動を抑制するなど、人間は有意識的にまたは無意識的によりよい行動をとるためのルールを自分の中にもっていることが多い。自分として自己実現を最大化させるための最適なルールは何か。それは暗示や信念、宗教や啓発本でも何でもいいが、そういった最善の「ルール」を日々試行錯誤しながらみな、探している。青い鳥のように、なかなか見つからないものではあるが。