幸福学と人間

最近、幸福学による指標を政策の是非の指標として取り入れようとする動きが一部においてある。背景には、GDPがあがっても我々はそれに伴い幸せになってきていると思えない、むしろ閉塞感がある。客観統計的な数値だけでなく、人々が感じる主観的な数値も必要なのではないかという発想から、純国民福祉(NNW)は生まれた。
海外の研究においても、たとえば就業率と幸福度は正の相関をとるなどのデータが確かめられている。働けた方が、総合的に幸福だと感じるからだ。
幸せは〜歩いてこない〜 だ〜から歩いていくんだね〜♪
幸せを突き詰めて考えると、それは一人ひとりが内的に感じる自分の立ち位置、主観的感覚に大部分が依存する。俺は、不幸だ・・・と思う人の思考をとめることはできないし、ポジティブ思考だとなんでもプラス、幸福に考えている人もいる。むしろ心配なのは、現在のマス・コミニケーションにおいてしばしば世論を誘導させるかのような報道を行うことで、実際の幸福度というものを広く国民に正しい数値を知らせることができるのだろうか、という部分が不安だ。主観的である以上、不幸な事例を取り出す→(論理の飛躍)→大部分が不幸だ→「だからこう変えなければならない!それはNNWもあがるから政府としてもやるべきだ!」といった偏向的な報道が
なされないとも限らない。
ベンサムは最大人間の最大幸福、功利主義をあるべき社会の形として説いた。多くの人々がより幸福であること、そういった社会作りを目指していくべきだという指標は私も賛成である。ただ、その仕組みとしてどのような運用を行っていくかが極めて疑問である。特に大きな疑問が次の2点、

・幸福、幸せを感じる感情の動きを人々からどうやって取り出すのか

・幸福、幸せとは何をもって定義するのか

一点目は、現在の技術ではアンケート方式しかなさそう。α波の分泌量によって人が幸福を感じている期間がわかる・・・とかいうのであれば、そこに偏見や虚偽が入る余地が少なくなるので、そのほうがいいのだが・・・母体を大きくすることである程度平均化されるだろう。アンケート項目も多岐にわたりそうだが。そもそも、何を持って幸せとするかが人によって価値観が違うし。

二点目は、先ほどの幸せの指標をどう捉えるかという問題もあるが、たぶん一般的にこれは回答なしだろう。仕事があり、衣食住が足りて、コミュニケーションができる環境があって・・・という形にもっていくのが、NNWが上がりそうな気はするが。難しいね。そもそも政策とNNWをどう結びつけていくかも疑問だし。直接税がいいのか、間接税がいいのかとか言う話なんかとは幸福度と少し結びつく気はしますが・・・。外国人参政権とかはわからんなあ。需要と供給などを調べるのかな。

とてもテーマが大きすぎて語りきれるものではないので、また続きは次回に。まあ、これはまず自分自身がどういったものを幸せと思うのか、どうした方より良いのかという価値観にも結びつく話で・・・確たる正解は自分でもなかなか導き出せないです。所詮相対的な話に過ぎないのかな。でも、幸せにはなりたいですねえ。