文章を書くこと、意見を言うこと

何か文章を書きたくなったので投稿。文章を書いて意見を言うって人間の認知欲求の一環なのでしょうか。あまりしゃべることがうまくないこともあり、せめて文章でまとめて意見を書くと何かしらの満足感を感じる。ただ、ツイッターフェイスブックは、私が臆病なだけかもしれないが、常に監視されているような恐怖を感じる。何か人が失言するのを多数の人が待っているような違和感を感じる。私は文章や発言に気を遣うのがいやでいやでたまらなくとても発言をする気がしない。それは自分の思いこみ、被害妄想に近いものであるとは思うのだが、それでも発言する気がしない。たまに発言をすることと言えば、自慢に似た何かでしかない。
言いたいことをなんでもいうことが自分にとって、そして周りにとっていいかというと、私はそれは違うと思っていた。自分が言いたいことをいかに我慢するかで平穏が保たれると思っている。思ったことを言うことはとても頭の回転のいい人であれば別だが、通常それは思いつきであり、それにより振り回したりすることを好まなかったからだ。
しかし最近、思ったことを言うようにという意見が先輩よりあった。意見をいうことはいいんだと。いい人もいるのは確かだ。しかし自分はそうは思わない。沈黙していることが自分にとって最低限であると思う。
昔、書いたかもしれないが人は武器やスタンスは、変えない、変わらない限り限られている。チョキな人は何回勝負しようとチョキしかだせない。その中で最善解、いや、最低限の解を見つけていくのがスタンスであり、生き方である。生き方は人それぞれ幼稚園から小学校、中学校に上がる中で、自分がどう立ち回ったらいいのか、どういうふうに見られているのか、どうすることがいいのか、失敗と成功の数知れない経験から体験的に得ていく。そしてそのスタンス、自分の座右の銘的なものが固まっていく。
「人間は皆すべからく同じものだ」と考える人と、「人それぞれ違う」とどこまで考えるかにより、そもそも結論は大きく変わってくる。また、「自分が正しい」と考えるか、「周りが正しい」と考えるかもそうだ。割合は人それぞれだが、前者はいわゆるワガハイタイプで、後者は八方美人タイプである。私は後者の典型的なタイプと自分で思っており、人はそれぞれ違うんだから言っても仕方がないし、それぞれの考え方がある。周りが正しいか、そもそもただしさとは相対的なものであると考える。一言で言えば、価値観はどのくらい「絶対的で一」であるか、それとも「相対的で多」であるかである。後者100%の場合一つ問題があり、そんなことを言ったら何を言っても仕方がないことになり、「人を怒れなくなる」。(だって、すべての人はその人にとって正しいのだから)
人に何も言わない人はリーダーシップないですよね。だめですね。だめなんですが・・・・・・・自信がないのかな。自信か。自信はどこから湧いてくるんでしょう。
自然に湧いてくるものを期待している時点で、非常に努力というものが嫌いというかそもそもしんどいのは嫌いというくらいの物ぐさであり継続できないんだな、と自分では思いつつ、それでも最低限はこなしたいと思うような日々になっています。真の姿か・・・自分ののめりこみ目指す先に自然に見えてくるものであればな・・・・今は、最高の最低限な仕事がしたい。