スルーと汎化で効率を求めると

スルーとパターン化を駆使し効率を求めていくことが一つの効率あるすばらしい形なのかと思っていたが、それもある水準を越えると弊害になり得る。すごい小さなことや、何気ないことに気づく能力が廃れているなあと思うのである。見えているはずのものが見えていない。注意しないと、見てるようでまったく見てない(自分の意識が)ということが起こる。機械的にやったり、汎化して物事をカテゴリ的にとらえるとことは、往々にして困ることがわかった。
行動にはいくつものパターンがあり、人をコンピュータと置き換えると本当に多様な動作や思考経路を要求されているなと思う。5秒でなしうる行動を3秒に、2秒にといった速度を求められることに関しては、その動作を一つ一つ見直していくことで最適な時間を導けるが、答えが無数にある場合は、まず答えを探す、いやまず問題を探すところから始まる。そもそも問題を正しく認識するためには、正しい情報が必要になって、さらに自分自身も相応の情報と判断基準を持つ必要がある。
ものを考えることは、ある意味その瞬間は何も生み出してはいなく、さらに無駄となる可能性があるので、そういった行動を何かしら恐れるというか、もったいない、優先度の低いものと考える傾向にあった。考えているひまがあれば、やれることをひとつでもやったほうがいいんじゃないかと。受験勉強とかもそんな感じだったじゃないか。しかし、決してそうじゃないことがわかった。身もふたもなく言えば、両方できるようになる必要がある。または、うまくバランスをとる必要がある。そうじゃないと、自分の行動に対して疑問や修正などもムダだと感じてしまう傾向に陥ってしまう。考えることはムダではないということをもうちょっと自分でわかる必要がある。スピード感と効率が重視される現代で、思考というのはあんまり優先順位が高くないものだと思っていたが、そんな今だからこそ、問題に気づく能力が相対的に貴重となってきているのだとも思った。
気づけないってことは、本当、なんか自分が今までどこをみてきたんだと思わされることがある。自分の見る目のなさに自己嫌悪に陥る。というか、そういったものを気づけるスキルって何なんだと思う。答えがないというか、それもまた慣れや経験であるとするならば、一朝一夕に身につくものでもないが。己の未熟さは、ただ恥じ入るのみである。隠れる穴もないので、たまに存在をこの場から消し去りたいなあとも思う。気配を消す。俺に注意を向けないでくれと思う。いや、意味はないんだけどそうして一人で落ち込む。
効率化とは、絵をイメージできる人なのかも。最近、そう思うようになった。
自分の好きな分野には反応するんだけどね。なかなかね。反応が鈍くなってしまう分野や苦手分野もあるよね。でも、何とかもうちょっと行動しつつ、考えていくことをやっていかなければ・・・と、頭では考えるのであった。