動画の価値は心理に左右される

動画は、一度はいりこむとその魅力にとりつかれることがある。依存という意味ではゲームに近い。動画を見られるようになる「時」が近づくにつれ、期待が脳をかけめぐり、見たくなる。
動画は、作品として純粋に楽しむ「消費したい」ものと、ニュースやバラエティとして時間を「消費させてくる」ものがあるように思う。
前者はより高品質に、手軽に動画を見たいと思い、時に手間はいとわない。一方後者は、選挙カーの演説じゃないが「聞こえているレベル」から始まる。→「興味を持つ」までに至っていない。
なんでテレビを多くの人が見るのかって、もちろんテレビが家にあるからで、それに勝ると思われる快感・娯楽が家にないからで、もしあればそちらに傾くだろう。さしずめ人はすべからく暇であり、時間はないが一方で時間を埋めようともしている。
動画を摂取する機会や媒体は多様化した。動画の制作量もハンパなく、一生かかっても世の良作とよばれるものすら網羅しきれないだろう。だから、網羅は諦める。とても見たいコンテンツだけは、見る。後は出会い、きっかけによって左右されてもいいか。そういった偶然の出会いを好む人もいる。そんな人々にコンテンツを見てもらうには、アプローチだ。きっかけを生み出すしかない。手軽さをアピールし、食指が動くような瞬間を待つ。果報は寝て待てという。
動画は時に感動を生み出すが、ビジネスとしては「コンテンツそのもの」に課金するやり方と、副次的なグッズに儲けを見込むやり方がある。どこかで金を取らなければ制作費は出ないわけで、まずは見、消費してもらう必要がある。その手軽さ。その手軽さに勝利したのがまさしく今の、TVを買って見ると言う形態であり、どんだけ大きな金が動いているのかわからないほどの業界である。
手軽さ。並みの手軽さではダメだ。見たいと思ったら3秒後には観たい番組がついていないとダメだ。そんなものは今もないが。だが、それができないとイラついてくる(人もいる)。ふと空いた時間をもし動画が埋めてくれるなら、それはとてもうれしいことだし、効率がいいことだ。
そしてもう一つ、動画への出会い方によっても、人は食指の動かし方が変わると思う。いつでも見られないからこそ今見るという思考が働く。いつまでもそこにあり続けるものは、あえて今と言う貴重な時間を使って見る必要はない。本当に自分にとって価値がない時間帯に、見ればよい。だから、多くの人に見られている動画は、存在がたゆたっている。動画を所有したいことと、動画を見ることは違う。動画というものは、残念であるが、所有してしまった瞬間にその存在が硬直化し、その人にとっての価値を下げてしまうように思う。「今、この時」の感動が失われるからだ。
もっとも、所有して動画を楽しむという形態を否定しているわけではなく、それはそれで良いじゃないかと思う人もいるだろう。ただ、それは内容がまったく同じにもかかわらず、視聴する人間の心理がゆえに。動画の価値のプレミア、神秘性・・・・が失われた、いうなれば、焼きたてではなくレンジで魚を暖めなおしたような味で、動画を視聴しているような気分になるのだ。