怒りのバランス

人間関係に一番直接きしみが出る可能性がある出来事として、怒りやいらだちを相手にぶつける時があります。怒っているかどうかの判定は、言葉の端々を見聞きしているだけも大体感じ取れるものです。
正直、私は怒りに接するのが対処があまり得意でないし、自分が怒るのも、その限度というものがよくわからない。わからないから、やってはいけない限度の閾値を越えるのを怖く感じ(取り返しのつかないことになることを恐れる)、怒れない、怒ってしまうことをためらってしまう。人間関係を壊したくない、平穏でいたいという思いが、事なかれ的な方向へ話をもっていくことを望むのかな、と思います。
一方で、怒りが存在しない、皮肉や水面下でのやりとり、表面的な社交辞令が飛び交う世界を望んでいるのかというと、それはそれで、気持ち悪さを感じる。思っていることがあるならちゃんと言えよ!と思うわけです。まぁ、言えないんですけどね、なかなか。相手の気持ちを考えると。
ちなみに、怒りを相手にぶつけるときって、「俺は怒っているんだ!」ということ相手に伝えるのではなく(たまにそう発言する人もいますが)、もっぱら頭から湯気を立たせながら、相手を非難することだと私は思っています。そこに怒りという感情が含まれているわけです。言われる方は時に戸惑い、時には誤り、時にはやりあう。とりあわない、無視する、ということもする。事実上の開戦です。
先のエントリでも少し書きましたが、非難を素直に受け入れるのは、すごく難しいことです。それが正しいことであったとしても。反発する理由としては、その発言内容そのものへの疑問や反発はもちろんのこと、非難している相手そのものの日ごろの行動や発言、立場も参考とされる。そんな、日ごろから完全な振る舞いをしている人なんか少なく、いわゆる「お前が言うな」的な感情的反発にあうこともしばしばです。私が怒れない一つの理由としては、そういう反発をされる突込みどころが多すぎる、ということもあります。要は、自分に自信がないのですな。
一方で、うまく怒れる、ケンカできるひともいる。性格やキャラによるのかもしれないが、怒っても、その場限りのものでさっぱりしていて、次見たらまた仲良く、という感じです。こういうタブーのない人間関係を築けることが一種の憧れでもあります。
人の脳内はプライベートな空間で、相手の本当の気持ちは結局の所、なかなかわからない。まあわかるようになったらなったで、もし見られたら私なんかは発狂しますが。
本音と建前、言える事やいえない事。相手の気持ちを考えること。自分の中で怒りをタブーにせず、まっすぐに伝えられるような方法や、関係作りをしていきたいな、と強く強く思う。